地蔵和讃(じぞうわさん)という、 御詠歌 (ごえいか)があります。

『日が昇ると、二つ三つと十にも満たずに死んだ幼な子が、冥土の賽の河原で、父恋いし母恋いしと泣きながら、重い石を一つずつ運んでは積み上げて、親兄弟のため回向の塔を造ります。すると、夕方になると、黒い金棒を持った、地獄の鬼がやって来ては、「お前ら何をする。娑婆(しゃば)にいる親の嘆きがかえってお前らを苦しめる種になる。われを恨むなよ」といいながら、せっかく積上げた塔を金棒で突き崩してしまいます。こんな時、お地蔵さんが現れて「娑婆と冥土は遠く離れている。私を冥土の父母だと思って頼りになさい」といって、子どもたちを裳裾の中に入れたり、抱き抱えて撫でさすったりして、憐れんでくださいます。ありがたいことです』といった筋の物語です。

「地蔵和讃」の情景が彫られているお地蔵さん

お地蔵さん(地蔵菩薩)は、江戸時代になると、子どもを守護してくれる仏として信じられるようになりました。幼な子の死亡が多い中で、上述の「地蔵和讃」の御詠歌が庶民の間に広がり、地蔵像も数多く建てられました。

「地蔵和讃」の情景が見事に彫り込まれている、地蔵菩薩像に出遭えました。地蔵尊の御足の下に、賽の河原で幼な子が石を積む様子が彫られています。これらの尊像の前で、人々は「地蔵和讃」の御詠歌を唱和、詠じて、親は死んだ子を地蔵に託すことで悲しみを軽減したり、地蔵尊をを敬い賛美して幼子の供養や子供の無事成長を祈ったのでしょう。

 

  埼玉県北本市のお地蔵さん

 

お地蔵さんの台座には、賽の河原で、重い石を一つ二つと積み上げている子どもと、それを窺っている、黒い金棒を持った鬼が彫られています。台座の上の地蔵さんの足元には、地蔵が憐れんで、裳裾に掴まらせ、錫杖にすがらせている二人の子どもが彫られています。

 

 

 

   宝暦三年(1757)三月 埼玉県北本市石戸3丁目 墓地

 

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  栃木県足利市のお地蔵さん

 

                                                          稲岡観音堂 栃木県足利市稲岡町西根

この地蔵尊像にも「地蔵和讃」の情景が彫られています。二人の幼子が、賽の河原で、重たい大きな石を運んでは一重二重と積み上げて、回向の塔を造っています。姿は見えませんが、鬼はこの様子を窺っていて、夕方になると現われて、せっかく積んだ塔を崩してしまいます。

 

 享保十八癸丑天(1733)建立
(磨滅していて元号は読み取れない、推定した)
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 「地蔵和讃」

「地蔵和讃」は、詠じられる地方などによっても異なります。七五調です。

 これは此世のことならず 死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語 聞くにつけても憐れなり 二つや三つや四つ五つ 十にも満たない嬰児が 賽の河原に集りて 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を徹すなり 彼の嬰児の所作として 河原の石を取り集め 是にて回向の塔を積む 一重積んでは父のため 二重積んでは母のため 三重積んでは故里の 兄弟我身と回向して 昼は一人で遊べども 日も入相の其の頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝等は何をする 娑婆に残りし父母は 追善作善の勤めなく 只明け暮れの嘆きには むごや悲しや不憫やと 親の嘆きは汝等が 苦患を受くる種となる 我を恨むることなかれ 黒金棒をとりのべて 積みたる塔を押し崩す 其の時能化の地蔵尊 ゆるぎ出させ給いつつ 汝等命短かくて 冥土の旅に来たるなり 娑婆と冥土は程遠し 我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼きものを御衣の 裳の内に掻き入れて 憐れみ給うぞ有難き 未だ歩まぬ嬰児を 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御膚に 抱き抱えて撫で擦り 憐れみ給うぞ  有難き