弘法大師と犬  高野山開創伝承

真言密教の奥義を極めた空海(弘法大師)は、帰国時に唐の浜辺から「真言密教の修行と普及に最適な地に留まれ」と三鈷杵(さんこしょ)を空中に投げました。帰国後、空海は「その三鈷杵の留まる地」を探して高野(南山)の麓に至り、山中で出会った狩場・丹生明神と二匹の犬に案内されて「三鈷杵が留まる、高野山の山上の霊地」を見出すことができ、「高野山開創」を決めたとされます。(下図は密教の法具・三鈷杵/東京国立博物館)

空海(弘法大師)は、①延暦二十三年(804)遣唐使の一行に加わって唐に渡り、②長安で恵果阿闍梨(けいかあじゃり)のもとで真言密教の奥義を極め、③帰国に際して、唐の明州の海岸から「真言密教を修行・流布するのにふさわしい地に留まれ」と祈って三鈷杵を日本に向けて投げた。 ④帰国後、空海は、真言密教の修行・普及の適地(=三鈷杵の留まる所)を探して高野の地に至った。山中で二匹の犬を連れた狩人(狩場明神=高野明神)と⑤山人(丹生津比売神=丹生明神)に出会い、狩場明神が放った二匹の犬と共に、山上の平地に案内された。⑥そこの松の木に唐の海岸から投げた三鈷杵が架かってるのを見て、大師は、「この地こそ求める地だ」と確信し高野山開創を決断した。⑦弘仁7年(816)に嵯峨天皇に上奏、高野の地が下賜された。山上に根本大塔などを中心とする壇上伽藍などが建立されたが、大師は、先ずここ(御社)に高野山の地主神(鎮守)として丹生明神と高野(狩場)明神を勧請した。⑧なお、狩場・丹生明神の連れていた犬は、後世、弘法大師の神使ともされて、大師の関連する社などにも置かれている。(弘法大師の行状記・絵図は数多く、内容も諸説あるが、本稿①~⑦の大筋は「今昔物語」巻11の第9話・25話による)

上記①~⑧の各項について、図版・資料・写真などを交えてみてみました。

 

① 入唐求法・留学僧

空海(弘法大師)は、延暦二十三年(804)5月、法を求める留学僧として「渡牒」を得て、遣唐使一行と共に唐へ向けて出航しました(一行の中には後に天台宗の租となる最澄もいました)。海上で激しい暴風雨にみまわれ、難破をまぬがれて唐の福州の赤岸鎮に漂着できたのは、遣唐使船団4隻のうち第1船と第2船の2隻だけでした。

 

1-1 遣唐使に従い入唐の御とき神々に祈りて悪風を鎮めたまう図
「弘法大師行状記図会」(国立国会図書館デデジタルコレクション)


 

② 唐での修行

弘法大師空海は、唐の長安に入って、青龍寺で恵果阿闍梨(けいか、あじゃり)から、密教の奥義、両部(金剛界と胎蔵界)の大法を伝授され、真言密教の後継者としての(伝法阿闍梨位の)灌頂を授かりました。

 

2-1 青龍寺 恵果阿闍梨がもとにいたり両部の大法を授かる・・図
「弘法大師行状記図会」(国立国会図書館デジタルコレクション)


 

③ 飛行三鈷・帰国時 唐から三鈷杵を投げる

大同元年(806年)八月、唐から日本に帰国することになった空海は、明州(みんしゅう)の浜辺に立って、「自分が受け継いだ真言密教の修行・流布(普及)に最適の地に留まれ」と祈って、密教の法具・三鈷杵(さんこしょ)を空中高く投げました。三鈷杵は五色の雲に乗って飛んでいきました。

 

3-1 唐から三鈷杵を投げる図(宝登山神社客殿の欄間彫刻)
「飛行三鈷」宝登山神社(埼玉県秩父郡長瀞町長瀞)
     (左上の飛んでいく雲の上に三鈷が見える)


 

今昔物語集 巻11第25話 弘法大師始建高野山語
  ・・・・攷証今昔物語集(中)芳賀矢一 編(国立国会図書館デジタルコンテンツ)

帰国後、弘法大師(空海)は、唐から投げた三鈷杵の落ちた場所(真言密教の修行・普及の適地)を探しに出かけ、高野山にその霊地を見出して根本道場とします。高野山開創の経緯を記した書物や図絵などは各種あり内容にも異なる部分もあります。「今昔物語」に載る「弘法大師始建高野山語」は、「史実」としてではなく「物語・伝承」として書かれたものですが、いわば庶民の通説ともされています。この記述を参照しながら以下、⑤高野山尋入・高野(狩場)明神と犬、⑥丹生明神の出現、⑦三鈷杵発見・高野山開創 の項を進めていきます。(下図は今昔物語集の原文)



 

④ 高野山尋入・高野(狩場)明神と犬に出会う

今昔物語(1の3)  帰国後、弘仁七年(816)六月、弘法大師は「唐から投げた三鈷杵の落ちた場所」を探しに出立しました。大和国宇智の郡(現在の奈良県五條市付近)にさしかかったところで、一人の狩人(猟師)に出会いました。狩人は、赤ら顔で、背丈は六尺ほど、青い小袖を着て、がっちりした体格の主で、弓矢を身に着けて、白黒二匹の犬(原文では大小二匹の黒い犬)を連れていました。「どこへ行かれるのですか」と尋ねられた大師が「真言密教修行の適地に落ちよと祈願して唐から投げた三鈷杵が落ちた場所を探しています」と答えると、狩人は「私は南山の犬飼です。その場所に心当たりがあります。すぐにでも犬に案内させましょう」と犬を放すと、命じられた犬の姿は見えなくなりました。

4-1 弘法大師と黒白二匹の犬を連れた狩場(高野)明神との出会いの場面
「弘法大師行状図絵」(高野山大師教会本部大講堂の奉納額絵)


 

4-2 弘法大師が狩人(狩場明神)に出合った場所を霊地として建立された神社

犬飼山転法輪寺(奈良県五條市犬飼町)
犬飼山転法輪寺は、高野山(南山)の麓の五條市犬飼町に建つ高野山真言宗の寺で、弘法大師を本尊とする。弘法大師が犬を連れた狩場明神と出会ったこの地を霊場として建立されたと伝わる。本堂の前には修行弘法大師像が立つ。境内には、室町時代の作とされる春日造りの明神社二社(平成6年に補修、彩色復元)が左右に並び、左に丹生都比売明神、右に狩場明神を祀る。両社の前中央には白黒二匹の和犬の像が丹生・狩場明神の神使として置かれている。

境内の丹生明神社と狩場明神社 犬像奉納:昭和57年(1982)10月


 

4-3 狩場明神の犬は「紀州犬」だったとする碑

玉川大師・玉真密院(東京都世田谷区瀬田)
玉川大師・玉真密院は真言宗智山派の寺。境内に、高野山開山の伝説を記した「弘法大師高野山初尋入記」碑と、弘法大師を山上平地の霊地に案内した犬は紀州犬だったとして二匹の犬を浮き彫りした「鳥獣供養塔」がある。

弘法大師高野山初尋入記  弘法大師嵯峨天皇より弘仁七年(816)七月八日高野山を賜り開創す。大師初めて南山に尋ね入りしみぎり山中に黒白二匹の紀州犬を従えし一人の狩人あり。親しく大師の後先となりて道案内す。遂に山上平地の幽地に至る。名づけて高野という。狩人忽然と姿を消す。これ高野山地主神丹生津姫命の眷属狩場大明神にほかならざなるざるなり。

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鳥獣供養塔  弘法大師が高野山に初めて尋ね入った際に、山上に案内した狩場明神の連れていた二匹の犬は紀州犬だったとして、その紀州犬を供養する塚。首輪をした二匹の犬が浮き彫りされている。

 

 

 

⑤ 丹生明神に出会う

今昔物語(2の3)  (犬に案内されて)弘法大師は紀伊国の国境の大河(紀の川)のあたり(天野:現在の和歌山県かつらぎ町)に至って宿をとりました。すると、大師はそこで一人の山人に出合いました。大師が「唐から投げた三鈷杵を探している旨」を話すと、山人は「これより南に平原の沢があり、そこがその地です」と告げ、さらに、翌朝、連れ立って山中に分け入る道すがら、「私は、この山の主です。その地を大師に献上しましょう」と、大師に高野の地を譲りました。

5-1 弘法大師の前に丹生都比売神が現れる図
「弘法大師行状図絵」(高野山大師教会本部大講堂の奉納額絵)

5-2 丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野)

延喜式内名神大社。祭神は、第一殿に丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ=丹生明神)、第二殿に高野御子大神(たかのみこのおおかみ=狩場明神)。第三殿に気比明神、第四殿に厳島明神。

祭神、丹生明神の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。(以上、由緒書より)。さらに、後には、丹生明神は奈良県吉野郡の丹生川流域の丹生一族の水神・農耕の神ともされるようになりました。
丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。(由緒書より)            丹生都比売神社の犬みくじ⇒

 

⑥ 高野山開創・三鈷杵発見

今昔物語(3の3)  翌朝、山人と連れ立って、大師は山中をさらに百町(11km)ほど入っていきました。すると、まるで鉢を置いたような場所(盆地)に出ました。広い平原があってその周りを峰々が取り囲んで聳えていました。平原の中にひときわ高い一本の松(原文では檜)があり、その松にあの唐から投げた三鈷杵が架かっていました。これを見た大師は、それはそれは喜ばれて、「この場所こそ私の探し求めていた地だ! 真言密教の修行・普及に最適な霊地だ」と確信されました。そして、(犬と共に)案内してくれた山人に大師が「あなたはどなた様ですか」と尋ねると、「私は丹生明神といって、麓の天野の丹生都比売神社に祀られているものです。犬の主(ぬし)である狩人「南山の犬飼(狩場明神)」は、「高野明神」とも申します」と言うと姿が見えなくなりました。(弘法大師が出会った、狩人は高野(狩場)明神、山人は丹生明神の化身だったのです)

6-1 高野山開創の図(宝登山神社客殿の欄間彫刻)
大師は松に架かった三鈷杵を発見、高野山開創を決める。案内した白黒二匹の犬は大師の後ろに控え、背後の雲には丹生明神・高野(狩場)明神が乘る。
「高野山開創」宝登山神社(埼玉県秩父郡長瀞町長瀞)

6-2 三鈷の松

弘法大師は、山上の霊地に案内され、そこの松の枝に唐から投げた三鈷杵が架かっているのをみて、高野山開創を決めたとされます。このとき三鈷杵の留まっていた松は「三鈷の松」と称されて、現在何代目かの松が壇上伽藍の根本大塔の近くにあります。また、松に留まっていた三鈷杵は「飛行三鈷(ひぎょうさんこ)」と名付けられて、国の重要文化財とされ、高野山金剛峯寺に保管されています。
松の葉は通常二葉ですが、三鈷杵の架かっていた松は、三鈷と同じく、葉が三葉だったことからも「三鈷の松」と称されます。三葉の松は珍しいものですが、高野山以外のお寺などでもみられます。

6-2-1 高野山金剛峯寺の三鈷の松 (和歌山県伊都郡高野町高野山)

高野山開創で縁(ゆかり)の三鈷の松は、現在は数代目かの松になりますが、金剛峯寺の壇上伽藍の根本大塔、金堂などの近くにあります(写真画面の右側の赤柵内)。通常の松は二葉ですが三鈷の松は三葉です。根を踏まれないように赤い柵で囲まれています。三鈷の松の三葉の落ち葉をお守りとして身に着けているとご利益があるとされます。

 

 

6-2-2 成田山新勝寺(成田不動尊)の三鈷の松(千葉県成田市成田)

三鈷の松といえば高野山金剛峯寺が有名ですが、弘法大師の彫った不動尊像を本尊とする成田山新勝寺にも、釈迦堂の裏手に三鈷の松があります。ここの三鈷の松も三枚葉です(通常の松の葉は2枚)。
写真:左から 三枚ある松葉、 三鈷の松、 弘法大師像

6-2-3 世田谷観音の三鈷の松 (東京都世田谷区下馬4)

この寺にも三鈷の松があります。『樹齢100年以上の松で、同種のものは高野山金剛峯寺にもあるが、当寺のは幹の胴部からも芽吹くので「胴吹三葉の松」とも呼ばれている。落ち葉を持っているとご利益があるといわれる。』 写真:三葉の松葉、 三鈷の松の案内

 

⑦ 高野山の地主神に、丹生・狩場明神を勧請

弘法大師は、高野の山上霊地に至って高野山開創を決め、高野山の下賜を嵯峨天皇に請い、弘仁七年(816)に直許されました。大師はすぐに根本道場として堂塔の建立に着手しましたが、「山上伽藍(金剛峯寺)」に、先ず、開山に至るまで加護を賜わり、この霊地の領主(山王)たった丹生都比売神(丹生明神)と狩場明神(高野明神)の両神を高野山の地主神として「御社(みやしろ)」に勘請されました。
◆◆◆ 丹生都比売神(丹生明神)とその御子狩場(高野)明神が、その和犬と共に、弘法大師を案内して高野山開創に至ったとされます。両神は高野山一帯で、塗料となる丹の原料を採掘する豪族、丹生氏の氏神だったといわれ、地元の丹生氏が弘法大師を援けて高野山開山を成功させたものと思われます。このことは、日本古来の神道と外来の密教(仏教)との融合を意味します。この労に報いて、弘法大師は丹生氏の氏神である丹生都比売神・狩場(高野)明神を高野山の地主神に勧請したとも言えましょう。

7-1 御社(みやしろ)と山王院 和歌山県伊都郡高野町高野山 高野山壇上伽藍

案内板より:壇場の西端にあり、三社が並列する。右から丹生明神、高野明神、十二王子百二十伴神をまつる。弘法大師は高野山開創にあたり、仏教の諸尊と日本在来の神祇との融和に意を用いられ、高野山の地主神として丹生明神と高野明神(狩場明神)を勧請された。その本社は山麓天野にある。
壇上伽藍の堂塔の中でも特に大切な社とされて、途切れることなく神事も行われています。

 

⑧ 弘法大師の犬

首輪を付けている犬
後世になって、高野山開創に際して、弘法大師を山上の霊地に案内した狩場・丹生明神の二匹の犬は、弘法大師のお使い(神使)ともされて、大師に縁のある不動尊などの寺社に置かれています。これらの犬像は、狩場明神の連れていた犬(=飼い犬)だったことを示しているのか、首輪がつけられています。

8-1 波切不動尊の和犬  

弘法大師は密教の奥義を極めて唐から日本に帰国することになったが、その航路で猛烈な嵐にみまわれ、船は難破寸前の有様だった。大師は、船上で、師の恵果和尚から授かった霊木で自ら一刀三礼して不動明王像を刻み、この像(浪切不動尊)に祈ると、大火炎を発し右手に持つ「利剣」で波を切り裂いて船を安全に導いたとされる。全国の波(浪)切不動尊の本山は、この弘法大師の彫った像がある高野山南院にある。

高水山常福院龍学寺 (東京都青梅市成木)

常福院龍学寺は真言宗豊山派の寺で別名「波切不動尊」とも呼ばれ、本尊に波切白不動明王を祀る。鎌倉時代の武将畠山重忠の信心篤かったとされる社。堂の正面に波を切る木製の大剣が置かれ、その前下に、赤い紐の首輪をし、白(銀)と黒の鈴を提げた一対の犬像が置かれている。浪切不動尊は弘法大師が唐からの帰路荒れ狂う嵐の船上で彫った像なので、ここの犬像は、大師との縁で奉納されたもの。高野山開創伝承に因んで大師の神使ともされることになった、和犬である。  写真:社殿前の和犬  文政5年(1822)

8-2 弘法大師ご修業像の和犬

泉涌寺即成院 (京都市東山区泉涌寺山内町)
即成院は真言宗泉涌寺派の寺。本山の泉涌寺は、寺伝によれば、平安時代に弘法大師によって営まれた草庵を創起とする。弘法大師は、高野山を真言密教の霊地とし、根本道場とすることを決めたが、その際、大師を高野の地へ案内したのが、山中で出逢った狩場明神の二匹の和犬だったと伝わる。境内の「御修行・弘法大師」像の前に、大師を高野の地へ案内したとされる、二匹の和犬像が置かれている。信者からの奉納とのことだが奉納年などの銘などは見当たらない。
写真:境内の御修行・弘法大師像の前の阿吽の和犬

8-3 成田山新勝寺(成田不動尊) (千葉県成田市成田)

成田山新勝寺の開祖寛朝大僧正は、「平将門の乱平定」を祈願するため、難波津から成田へ「弘法大師が敬刻開眼した不動尊像」を奉持した。成田の地について、乱平定を祈る不動護摩法を行ったところ、満願の日に平将門が討たれたという。成田山新勝寺は、この「弘法大師の不動明尊像」を本尊として、真言密教の護摩法の正系を伝える。弘法大師の高野山開創伝承に因んで、大師の神使とされる首輪をした和犬像が、境内の「清瀧権現堂・妙見宮」と「「薬師堂」に置かれている。

8-3-1 成田山清瀧権現堂・妙見宮の犬  犬像:正徳元年(1711)9月
この堂は、成田山の地主神である清瀧権現と地主妙見を祀る。享保17年(1732)の建立。しかし、堂前下に控える犬の像には堂建立以前の「正徳元年(1711)9月」と刻まれている。かつてあったとされる大師堂に置かれていた和犬像がここに配されたのかもしれない。首輪をしていることからも、高野山開創に際して狩場明神が連れていた和犬(飼い犬)が連想され、後世、大師のお使いともされるようになった犬とみられる。

8-3-2 成田山薬師堂  犬像:寛政10年(1798)
現在の薬師堂は、明暦元年(1666)に成田山本堂として建立され、この場所に移築されていたもの(旧成田山本堂・・現存最古の堂)。平成25年(2013)に修復された際に、犬の像が置かれた。この犬像は、寛政10年(1798年)5月の奉納のもので、以前は釈迦堂前などに置かれていた。太い首輪をした阿吽の一対で弘法大師の高野山開創に因む和犬である。

8-4 泰叡山瀧泉寺(目黒不動尊)(東京都目黒区下目黒)
目黒不動尊には4対の和犬像があるが、二重の首輪をしたこの一対を例示した。不動尊に犬像が置かれているのは、上掲の成田不動尊と同様、弘法大師の高野山開創の伝説に因るものと思われ、首輪が狩場明神の連れていた犬(飼い犬)を連想させる。  補注:目黒不動尊は、天台宗の寺で、空海(弘法大師)の真言宗とは宗派が異なるが、天台宗の開祖最澄(伝教大師)とは同じ遣唐使船団で入唐し、帰国後、空海は最澄に密教の結縁灌頂を授けた(密教では最澄を弟子にした)。 写真:独鈷の滝上、水神祠左右の犬

⑨ 丹生明神の和犬

高野山開創伝承で、唐から投げた三鈷杵が落ちた「山上の霊地」に、弘法大師を案内したのは、麓の山中で出合った狩場明神が連れていた二匹の犬でした。狩場明神は丹生津比売神(丹生明神)の御子で、丹生明神系の神使は犬とされます。以下に丹生明神の神使の和犬が置かれている丹生明神系の社をご紹介します。

9-1 城山神明社 (千葉県君津市久留里久留里城址内)

江戸時代、黒田直純が久留里城主となった際に丹生明神が遷宮され、現在は城山神明社に合祀されている。社の参道に犬の像が奉納されているが、この犬について「丹生明神は高野山犬飼明神を祖神とするため神前の狛犬は日本犬である」と案内(下掲)されている。高野山開創伝承の丹生・犬飼明神の犬(飼い犬)とされて首輪をしている。
写真:城山明神社由来と丹生・狩場明神の和犬  奉納:嘉永3年(1850)左像の口先は破損


9-2 武野上神社 (埼玉県秩父郡長瀞町本野上)

この神社はかつては丹生(ニブ)さまともよばれた。拝殿前左右に一見オオカミ風の犬像が置かれている。「祭神は、吉野の丹生川上神社中社に鎮座する、水神・ミズハノメノカミ(丹生明神系)を勧請したものなので眷属はオオカミではなく和犬である」と長瀞町史民族編にも載る。丹生明神の神使の和犬である。
写真:丹生明神の和犬   奉納:昭和17年(1942)

9-3 高龗(たかお)神社(丹生明神系)の和犬

栃木県、特に宇都宮市やその周辺には高龗神(たかおかみのかみ)を祀る神社が多い。この水神に農民は、旱魃には降雨を長雨には止雨・祈晴を祈り、稲作の無事豊穣を願った。「高龗神社」と書いて「たかお神社」と称されている。これらの社の高龗神は、直接、間接を問わず、延喜式で最高位の名神大社で高龗神を祀るので有名な、貴船神社(京都市左京区鞍馬貴船町)か、丹生川上神社上社(奈良県吉野郡)から勧請されたものと推察される。特に、和犬像が奉納されている社(下記に4社を例示)は、丹生川上神社上社から勧請された社て、丹生明神の神使の犬が置かれているものと思われる。犬像は、いずれも独特な和犬像だが、尻尾はどれも上に巻いている。

9-3-1 立伏・高龗神社(栃木県宇都宮市立伏町)

(和犬像の奉納年は不明)

9-3-2 大網町・高龗神社(栃木県宇都宮市大網町)

和犬像  奉納:明治28年(1895)11月21日

9-3-3 大宮神社(栃木県塩谷郡塩谷町大宮)

神社名は「大宮神社」だが、拝殿の正面には、「正一位大宮高龗大明神」の神額が架かる。「高龗神」を祀る社である。
上段の和犬像 奉納:明治27年(1894) 下段の先代像の奉納年は不明


9-3-4 高尾神社(栃木県さくら市上阿久津上町)

下掲の由緒書から、「高尾神」とはまさしく「高龗神」の事で、高尾神社は高龗(たかお)神社と同意であることが判る。奉納額の中には「高尾」ではなく「高龗」神社と記されたものもある。
由緒書と和犬像  和犬奉納:大正8年(1919)10月

 

追補 オオカミ風にされた和犬

前項までの高野山開創伝承に関連した、弘法大師の和犬や丹生明神の和犬が、お犬様(オオカミ)信仰の中心地である秩父地方や奥多摩地方では、オオカミ風にアレンジされて置かれてる事例をご紹介します。

高水山常福院(波切不動尊) 東京都青梅市成木7町目高水山

浪切不動尊像の原像は空海・弘法大師が唐からの帰路、嵐の船上で彫ったもので、波切不動尊の本山は高野山南院にある。したがって、この社に奉納されている犬像は、高野山開創伝承に因んで「弘法大師のお使いともされている和犬」である。

社前の、赤い紐の首輪をして白黒の鈴を提げたこの犬像は、正面から見れば「犬」だが、横から見れば、オオカミ像の特徴を持っている。尻尾は巻尾になっているものの、牙とあばら表現はオオカミ像のものである。ここが奥多摩で目前の御嶽山(武蔵御嶽神社)を中心としたオオカミ(お犬さま)信仰の盛んな地であることから、和犬像がオオカミ像風にアレンジされたものと推察する。 奉納:文政5年(1822)

 

武野上神社(丹生明神) 埼玉県秩父郡長瀞町本野上

武野上神社は、もともと丹生明神または丹生(ニフ)様と呼ばれていたが他社との合祀でこの社名になった。総持寺を開山した心地覚心大和尚が、鎌倉時代の中期紀伊国(和歌山県)高野山に参籠して満願のみぎり、この野上地方の旱魃を救うために、大和国(奈良県)吉野郡丹生川上の中社に鎮座する、水神慈雨の罔象女神(ミズハノメノカミ)(丹生明神)のご分霊を頂いてかえり、この地に祭った。ご眷属は、山犬のオオカミではなく、人に親しまれる普通の犬である。(以上、右図・長瀞町史民族編より)

この社の像は、丹生明神の神使である「和犬」のはずである。それが、ほとんどオオカミ像風に造られている。尻尾は犬のような巻尾ではなくオオカミ像のように太くて長く地面を這っている、奥牙も大きく、わずかだがあばら表現まで見られる。ただ、ここの像は、他の秩父のオオカミ像とは異なり、仔連れの像で、鼻先(吻)は犬のようで、耳の形も珍しい。穏やかさと温かみが感じられる。しかし、本来和犬であるべきものが、オオカミ風にされたのは、秩父地方がオオカミ(お犬さま)信仰の地であることからと思える。大正期のころまでは、(他のオオカミ神社と同様に)諸願成就のお姿入りのお札も頒布されていたという。 奉納 昭和17年(1942)

 

(参考)和犬風にされたオオカミ

子母口・ 橘樹(たちばな)神社  神奈川県川崎市高津区子母口

祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と弟橘媛(オトタチバナヒメ)。「日本武尊が東征の折、この地から上総へ渡ろうとして船出したが海は荒れ狂った。このとき、弟橘媛が入水して海を鎮め、無事東征を続けることが出来た。後に媛の櫛など装身具の一部がここに漂着した。日本武尊が媛を偲んで祀ったのがこの社だとされる。

日本武尊の神使はオオカミとされている。オオカミの筈だが、この社の像はやや長めの巻尾だが和犬の像にしか見えない。オオカミ像の特徴である、地を這うような長くて太い尻尾や、大きな牙、あばら表現もない。新旧2対の像がある。

奉納 上段:先代像 明治13年(1880) 下段:拝殿前の新像(先代のコピー)平成2年(1990)