神使になった いのしし・猪

2019年の干支は己亥(つちのとい)で、いのしし・イノシシ・猪 年です。「狛犬の杜*別館」HP内の「神使の舘」から、「猪」の項を再編集してここに掲載しました。「神使になった猪」です。

近年、イノシシによる深刻な農業被害は東北北部にまで拡大し、農水省などによると、イノシシは全国に約94万頭生息し、2015年度の農作物の被害は51億円に上り、獣被害の36%を占め、シカ(42%)に次ぐとのことです。猪、鹿などによる農作物の獣被害は昔からの悩みで、かつては、「四足除けのオオカミのお札」を頂くお犬さま信仰も盛んでした。(右図参照)

嫌われものの猪ですが、イノシシは古来、神使(神仏のお使い)ともされてきました。イノシシは、「猪突猛進」と言われますが、その迅速で素速い動きが、特別なもの(尋常でないもの)に感じられたからかもしれません。

神使になった いのしし 目次

  • Ⅰ 摩利支天といのしし
  • Ⅱ 和気清麻呂といのしし
  • Ⅲ 愛宕信仰・将軍地蔵といのしし
  • Ⅳ 山の神といのしし 伊吹山 武蔵御嶽山
  • Ⅴ 先山千光寺 千手観音といのしし
  • Ⅵ 岡太神社といのしし
  • Ⅶ 馬見岡綿向神社といのしし
  • Ⅷ 八幡神といのしし 一代守り本尊

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Ⅰ 摩利支天といのしし

摩利支天(まりしてん)の名は、あまり耳にしたことがないかと思われます。摩利支天は、陽炎(かげろう)を神格化した女神で、常に陽光(天日・月日)の先を進みます。陽炎(かげろう)のように実体がなく姿は見えず、捕らえることも傷つけることもできないので、他から害されることなく、光(時)の前を進み、進路の障害になる災難や厄を除くことが出来るとされます。(仏教を守護する天部の神で、元は「威光」「陽炎」を神格化した古代インドの女神マーリーチ)

摩利支天像は、三面六臂で弓矢などを持ち走駆する猪に乗る女神の像が多いようですが、男神のものなど各種あります。六臂それぞれに持つものは、弓・箭・針・線・鉤・羅索・金剛杵などの武器です。乗っているいのしし(猪)が神使(眷属)とされます。猪は、摩利支天が陽光に先立って前へ進む様子が、突進する猪の素早さになぞらえられて神使とされたもの思われます。なお、堂や寺では、摩利支天像は「秘仏」とされている場合が多く、目に触れる機会は少ないようです。

戦国時代には、武士の間で広く「守り本尊・戦勝の神」として信仰され、出陣に際しては矢玉にも当たらず勝利するとして鎧の中に秘めてお守りとされたいわれます。現在でも勝利、開運の神とされ、猪(亥)が神使とされ、亥年生まれの人の守り本尊ともされています。

1 摩利支天の石像

 

1 霊諍山(大雲寺の裏山)(長野県千曲市八幡)「三面六臂で弓矢などを持ち猪に乗る女神」
2 修那羅山安宮神社(長野県東筑摩郡坂井村)「三面六臂で弓矢などを持ち猪に乗る女神」
3 五所神社(神奈川県鎌倉市材木座2)「丸彫り・三面二臂で弓を弾き猪に乗る男神}

2 摩利支天姿(お札)

 

Ⅰ 建仁寺禅居庵摩利支天堂(京都市東山区)「顔は天童女で三面六臂(ウデ)あり、身には甲冑を着け、頭には宝冠を戴き、七頭の猪に乗る」
2 南禅寺聴松院(京都市左京区)三面六臂で頭に宝塔宝冠を戴き、甲冑を着け、七頭の亥(猪)の背に座す」
3 下谷徳大寺摩利支天(東京都台東区上野4・上野アメ横内)日本三大摩利支天の一つ、「頭髪上空に飛揚し、右手に利剣を掲げ、左手を開いて前方に捧げ、走猪の上に立たせ給う」
4 東京
泉岳寺(東京都港区高輪2)「大石良雄念持仏、除災招福摩利支尊天御守」 泉岳寺は忠臣蔵で知られる浅野家・赤穂義士の菩提寺。大石内蔵助は、髷(まげ)の中に摩利支天納めて討ち入りに臨み本懐成就を遂げたと伝わる。

3 摩利支天を祀る寺のいのしし

3-1 本法寺 摩利支尊天堂(京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町)

本法寺は、久遠院日親上人の開基、現在は日蓮宗一致派大本山。本阿弥家の菩提寺で、光悦作といわれる「巴の庭」が有名。境内の摩利支尊天堂の前に、神使の猪像一対があります。 奉納は明治30年(1897)。毎年11月に摩利支天祭が行われます。

 

3-2 建仁寺禅居庵摩利支天堂 (京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町146

当庵のご開山、清拙正澄禅師(元の禅僧)は、1326年(嘉暦元年)に来日、時の執権北条高時の詔で鎌倉の建長寺(禅居庵)などに住し、後に後醍醐天皇の勅命で京都の建仁寺、南禅寺に住任されました。禅師は、中国からの来日に際して、自ら清浄の泥土で「摩利支天像」を作り袈裟に包んで奉持され、日本で住された先々でこの像を祀られました。禅師は、当禅居庵で1339年(暦応2年)にご遷化(せんげ)され、禅師の摩利支天像は当摩利支天堂に秘仏として祀られています。なお、この摩利支天像は、お前立やお札、HPから察するに、三面六臂で、七頭の猪の上に座す女天の像のようです。

境内には、摩利支天の神使の猪像が多数奉納されています。写真、上段は堂前の猪像の一対、下段は境内にある猪像の対の片方と手水場の猪の水口。

 


 

3-3 南禅寺聴松院(京都市左京区南禅寺福地町)

南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山。南禅寺の「聴松院」は、鎌倉時代、清拙正澄禅師(上項、建仁寺禅居庵を参照)の塔所として創建された瑞松庵に始まり、「大聖摩利支尊天」を祀ります。摩利支天の神使の猪像が置かれています。

 

 

Ⅱ 和気清麻呂といのしし

1 和気清麻呂(わけのきよまろ)といのしし 弓削道鏡事件

奈良時代、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、称徳天皇の寵愛を受け、太政大臣に、さらに法王にまでなったが、終には皇位を望むようになった。折も折、「道鏡を皇位につければ國平らかにならん」との宇佐神宮(宇佐八幡宮)の託宣があったとのうわさを耳にして、称徳天皇は、和気清麻呂に託宣の真偽を確かめに九州の宇佐神宮へ行くよう命じた。宇佐神宮へおもむいた清麻呂は、「皇室の血筋でない道鏡は掃(ハラ)い除くべし」とする宇佐神宮の神託を持ち帰って朝廷に直奏した。嘘が判って、道鏡の野望は阻止された。

これに怒った道鏡は、清麻呂を大隈国(鹿児島)に追放し、追っ手(刺客)を出した。清麻呂は、道鏡の追っ手に足の筋を切られて歩行困難になったが、突如現れた三百頭の猪に助けられ、猪の警護のもと宇佐神宮に再度到り、ご宣託のお礼参りをすることが出来た。そして、神告に従って霊泉に浴して、足を治癒することが出来た。その後、称徳天皇が没して光仁天皇が即位し、天皇家は安泰となり、道鏡は下野国に流され、清麻呂は平城京に呼び戻されて、平安遷都などに尽力した。

大絵馬 和気神社(岡山県和気)の大絵馬のひとコマ

和気清麻呂は、学問の神、交通安全の神、足腰の神、建築の神、護国神などとして信仰され、清麻呂を祀る「護王神社」や「和気神社」、「足立山妙見宮」などには、宇佐神宮参拝に際して清麻呂を助けた猪が、霊猪(神使)とされて猪像が置かれています。なお、清麻呂が京の鎮護として、愛宕山に創設した「愛宕神社」の神使も猪とされています。

2 和気清麻呂を祀る社のいのしし像

2-1 護王神社(京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町)

和気清麻呂と和気広虫姫命(清麻呂の姉)を祀る。霊猪(神使)として、阿吽一対の猪像が拝殿の前にある。この猪は旧拾圓札の図柄になって、「裏いのしし」とよばれた(下欄参照)。本殿前の招魂木(オガタマノキ)の根本に、願かけ猪の石像が有り、「座立亥串」と呼ばれる願かけの串がたくさん刺し立ててある。境内、門前、手水舎にも猪像がある。清麻呂は足腰の神ともされている。また、旧10月の亥の日の「亥の子祭」では、夜間に亥の子餅を御所に献納し、参拝者も食して無病息災と子孫繁栄を祈る。

拝殿前の猪像(明治23年12月建立)       最下欄は境内の猪像


 

 

お札(紙幣)になった「和気清麻呂の猪」

明治32年(1899)に発行された旧拾圓札(日本銀行券・兌換券)の図柄に「護王神社」・「和気清麻呂」・「猪」が入っている。この紙幣は「裏いのしし」とよばれた。

 

2-2 和気神社(岡山県和気郡和気町藤野1130)

和気清麻呂や姉の和気広虫姫命など和気氏一族の九祭神を祀る。和気神社は明治42年付近の小祠を合祀し、大正3年、社名を猿目神社から和気神社に改称した。京都の護王神社の猪像は明治23年奉納だが、和気清麻呂の生まれ故郷の、この神社の猪像は平成に入ってからのもので新しい。

上:拝殿前の白猪像 平成7年(1995)  

↓ 随神門前の猪像 平成3年(1991)

 

2-3 足立山妙見宮(御祖神社)(福岡県北九州市小倉北区妙見町17)

足が治癒したことに感謝して和気清麻呂自身が創祀した神社。「足立山」の山号は足が治ったことに由来する。足の神ともされる。

足立山妙見宮の創建: 削道鏡の怒りをかって大隅国(九州)へ追放された和気清麻呂は、追っ手に足の筋を切られたが、300頭の猪に助けられて、再度、宇佐神宮に参拝できた。神宮の神告にしたがって、現在の小倉北区足立山の麓の石川村(現湯川町)の霊泉に入ると足はたちどころに治った。清麻呂は数日後、山上(足立山)へ登り、造化三神(北辰尊妙見菩薩)に皇統安泰を祈った-宝亀元(770)年。

参道階段上の境内入口に猪像が奉納されている(平成7年亥年1月吉日)

 

 

 

Ⅲ 愛宕信仰・勝軍地蔵 と いのしし

1 愛宕(あたご)山と将軍地蔵といのしし

京都・愛宕神社(京都市右京区嵯峨愛宕町1)

全国に約900社を数える愛宕神社の本社。京都の愛宕山は早くより山岳修業霊場としてしられていた。大宝年間(701-704)に役の行者と僧泰澄によって開かれ、その後、天応元年(781)に、和気清麻呂が平安京遷都に際して王城鎮護のため、京の西北(戌亥)にあたる愛宕山朝日峰に白雲寺を建立し、愛宕大権現を祀った。外敵や疫病の侵入を防ぐ「賽の神」としての性格も持つ「愛宕大権現」(の本地仏)は「勝軍地蔵菩薩」だとされた。勝軍地蔵は、室町時代には、「戦勝の神」として戦国武将の間で多大の信仰を集めた。また、古くから火伏・火防に霊験ある社としても崇敬され、「火廼要慎(ヒノヨウジン)」のお札が求められた。明治初期の神仏分離以前は、本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、境内には社僧の住坊があったが、神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っている。なお、本地仏だった勝軍地蔵は、金蔵寺(京都市西京区大原野)に移されて祀られている。

愛宕神社の神使は猪とされています神使の「猪」の由来は、神社の創建者である和気清麻呂が猪に助けられた故事に因むとされますが、愛宕山は京の戌亥(いぬい=西北)の方角にあるので「亥=猪」とされたとか、一帯に猪が多く棲息したからとか、さらに、十二支の亥(猪)は、五行説では「水」の運気、陰陽説では「陰」に当たり「火」を制御するとされることから、火防の愛宕神社にふさわしいとして猪が神使とされた、なとの諸説もあります。

2 いのししに乘る将軍地蔵

勝軍地蔵は、甲冑姿で錫杖、宝珠を持ち馬にまたがる姿が多いが、神使の猪に乗るものもある。下図参照。
左:安立院(東京都台東区谷中7-10)   右:長久寺(埼玉県坂戸市浅羽)-享保14(1729)年

 

3 日光市の愛宕社のいのしし

日光市の愛宕社の 勝軍地蔵と猪

徳川家康を奉祀する「東照宮」の地、日光を火災から守るため、この地方では、山中のあちこちに愛宕信仰に基づく、愛宕社(愛宕山)が設けられ、防火鎮火が祈られました。これには、日光の火の番も任務とした、幕府直轄の郷士集団「八王子千人同心」もかかわったものと思われます。石祠には勝(将)軍地蔵像や愛宕地蔵が祀られ、石祠の前に神使の猪も置かれました。愛宕神社の神使は猪ですが、日光以外で愛宕社に猪像が置かれている例を見たことはありません。

3-1 日光市石屋町 愛宕社(石屋町八坂神社)

志渡渕川を渡った「竜蔵寺」墓地(十王堂あり)を回り込んで裏の山道を15分位登る。石柵で囲まれた立派な石祠がある。祠には三面の将軍地蔵が祀られ、祠入り口には神使の猪像の一対が向き合っている。左像は鼻先が補修されている。石柵柱に享保4年(1719)の銘が読める。

上段:愛宕社石祠(祠前の猪像と祠内の馬に乗る三面将軍地蔵)        下段:対の猪像

 

 

3-2 日光市中鉢石町 愛宕社

日光市役所の左奥の瑠璃殿の入口の右手から小尾根を10-15分ほど登った山腹。石祠には馬に乗った将軍地蔵が祀られ、祠より少し手前右脇の石台の上に、「苔むした阿吽の猪の一対」が並べて置かれている 。祠の周辺には、愛宕地蔵や仁王像(守護神)がある。

上段:愛宕地蔵と守護神と愛宕社石祠  下段:祠内の将軍地蔵と台石に載る苔むした猪像2体

 

 

3-3 日光市瀬尾 愛宕神社

日光市瀬尾の愛宕山、集落の登山口から山頂の愛宕神社まで約15分。石祠には愛宕地蔵が祀られ、祠の前に、神使の猪像が三体ある。石鳥居には宝永4年(1707)の銘がある。

愛宕社石祠と祠前の3体の猪像 (祠内には愛宕地蔵尊)

 

3-4 日光市所野 愛宕社

所野の平成物産の傍の「薬師堂」の裏手にある営業所を左から回り込んで背後の草藪に入り左手に裏山を10分ほど登った中腹。山道の2番目の祠、
祠の中には、「猪に乗った勝軍地蔵」が祀られていて、上方の窓からは地蔵の顔が拝見でき下方の窓からは猪の顔が見られる造りになっている。


 

 

Ⅳ 山の神といのしし

1 伊吹山

伊吹山 滋賀県米原市上野ほか。滋賀県の最高峰(標高約1377m)。
伊吹山山頂には、白いイノシシ「白猪」が祀られ、日本武尊像があります。この白猪は古事記に拠る伊吹山の神使ですが、「日本書紀」ではこれが「大蛇」と記されています。両者とも、動物が神の使い(神使)として登場した最初の事例だと思われます。

ヤマトタケルノミコトは、伊吹山に荒ぶる神がいることを耳にして、素手で退治してやると、草薙の剣を伊勢のミヤスヒメのもとに置いたまま伊吹山に向かった。伊吹山に至った、ヤマトタケルは、古事記では「牛のように大きな白猪」、日本書紀では「大蛇」に出会った。実は、この「白猪」、「大蛇」は「伊吹山の荒神(あらぶるかみ)の化身」(=山の神)だったが、そのことに気付かず、ヤマトタケルは、「これは、たかが神の使いではないか。後で退治すればよい」と無視して先を急いだ。これに怒った山の神は氷雨を降らしたり、霧で道を迷わすなどしたので、ヤマトタケルは半ば心神喪失状態でよろけながらやっとのことで山を下ることができた。麓で、泉の湧き水(居寤-いさめ-の泉水)を飲んでようやく正気を取り戻せた。 でも、ヤマトタケルは、この時こうむった病がもとで衰弱して、大和へ強い望郷の念を寄せながら亡くなることになる。


 

2 武蔵御嶽山

武蔵御嶽神社  東京都青梅市御岳山
武蔵御嶽神社の拝殿右の玉垣内にある「皇御孫命(スメミマノミコト)の社(ヤシロ)」には瓊々杵尊(ニニギノミコト=天照大神の孫=皇祖)が祀られています。

この社(やしろ)の前に、一見なんの脈絡もなく、唐突な感じで一対のいのしし(猪)像がありますが、この猪像と社や祭神との間に特別な由縁が見当たりません。猪は、前述(上項)の伊吹山のように、古来、山の神の使いともされてきました。めったに例のない「猪像」の奉納にも拘らず、猪と祭神の間に「直接的な縁」がみられないことから、この猪像は、武蔵御嶽神社の神域を含む御嶽山の「山の神」の神使(お使い)として奉納されたものと思われます。                              なお、日本参道狛犬研究会の山田敏春氏によると、猪像の台石には、「諸□繁栄と五穀豊穣を祈願して文化五戊辰(1808年):六月吉日に奉納した」旨の銘があるとのことです。現在置かれている猪像は、平成8年の台風で大破したので、平成11年(1999)に復元されたものとのことです。奉納当初は左右同じ造りだったと思われますが、現在の像は、右は猪に見えますが、左像は豚風になっています。豚は猪を家畜化したものです。中国では亥を豚で表します。いずれにしろ、関東では、猪像はきわめて珍しいものです。

 

Ⅴ 先山千光寺 千手観音といのしし

先山千光寺  兵庫県洲本市上内膳2132
千光寺は淡路島中央にあり、淡路富士ともよばれる先山(448m)の山頂に建つ。(先山の山名はイザナミ・イザナギの二神が国生みのときに最初に創った山とされることに由来する)。千手観音を本尊とし、淡路西国八十八ケ所第一番の札所。

千手観音(千光寺の本尊)とイノシシ 「延喜元年(901)播磨の国の猟師忠太(藤原豊広)が播州上野の山中で為篠王(イザサオウ)という大きな猪を射た。ところが、猪は傷つきながらも海を渡り、淡路島の山奥へ逃げ込んだ。忠太が跡を追うと、先山の大杉の洞中に、胸に矢の刺さった千手観音像があった。驚いた忠太は頭を剃り、寂忍(じゃくにん)と名を改めて仏門に入り、ここに観音像を祀る寺を建てた。」 (先山・千光寺略縁起より)

本堂の前の左右に、千手観音(千光寺)のお使いのイノシシ像。 奉献 天保2年(1831) 4月

 

Ⅵ 岡太神社といのしし

岡太神社  兵庫県西宮市小松南2-2-8
岡太(おかた)神社は、延喜式内社で、「おかし(岡司)の宮」ともよばれ、主祭神に天御中主(アメノミナカヌシ)神を祀ります。境内の鳥居の前にいのしし像が置かれています。案内板(下掲)によると、この猪像は、恵美須大神が、当社で、災害を未然に静止(防止)して五穀豊穣をもたらす『猪止)打(ししうち)神事』を毎年されるとの伝承に由来するとのこと。静止(しし)を猪(しし)にかけたもので、猪は大神の使わしめといわれています。

昭和61年(1986)猪(静止)像 柏木秀峰(彫刻家)作、石匠 渡辺正之輔

 

 

Ⅶ 馬見岡綿向神社といのしし

  馬見岡綿向神社 滋賀県蒲生郡日野町村井705
馬見岡綿向(うまみおかわたむき)神社は、欽明天皇6年(545)、綿向山頂(1,110m)に祠を建て天穂日命(あめのほひのみこと)を祀ったことに始まる。延喜式神名帳に載る式内社。蒲生上郡の総社。蒲生家が氏神として庇護し、,日野の大宮ともよばれ、江戸時代には日野出身の商人たちの崇敬を集めた。

猪と綿向神社(案内板より要約)
社伝によると、欽明天皇6年(545)蒲生野の豪族二人が、綿向山麓に狩りに来ていたが、4月〈新暦の5月)だというのに吹雪となり、岩陰で休んでいるとやがて雪は止んだ。外に出たところ大きな「猪」の足跡を見つけ、その足跡を追って行くと山頂に導かれ、綿向大神(天穂日命)の化身である白髪の老人から「この山頂に祠を建てて私を祀れ」とのご託宣があった。ご神託に従い、山頂にご社殿を建てて祀った。平安時代初期に里宮(現在地)に遷祀したが、以降、このお宮を、当神社の奥宮として20年毎に社殿を造り替えて(式年遷宮)きた。この謂れをもって、「猪」が綿向大神のお使いとされている。

神猪像(単体)奉納 平成18年(2006)12月20日

 

Ⅷ 八幡神といのしし ー 一代守り本尊


水戸八幡宮 茨城県水戸市八幡町8-54
水戸八幡宮は、慶長3年(1598)に水戸城主の佐竹氏の守護神として建立された社。本殿は入母屋造り、こけら葺きで国指定重要文化財。

拝殿前の左右に犬と猪の像が対で置かれています。これは、八幡大菩薩(八幡神)が、その本地仏の阿弥陀如来と共に、戌・亥年生まれの人の「一代守(イチダイマモリ)本尊」(守護仏、守護神)とされることによります。
この社のパンフレットの御神徳の中の一つに「戌亥年守護」とあり、「御祭神の応神天皇、神功皇后は、戌年、亥年生まれと伝えられ、戌亥年生まれの方の一代の守護神として、古来より崇敬されている」と書かれています。これを受けて、拝殿前の右にイヌ(犬)、左にイノシシ(猪)の像が置かれ、イヌは「守護戌神」、イノシシは「守護亥神」とされています。奉納ではなく、八幡宮が置いた像です。

 

以上です。