ナマズ なまず 鯰 ・・・

いろいろな鯰(なまず)があります。今回は、今まであちこちに記した「なまず」の記事を、この稿にまとめてみました。

Ⅰ 関東の鯰
Ⅰ-1 要石で押さえ込まれた地震大鯰
Ⅰ-2 地震鯰絵の鯰
Ⅰ-3 防災の鯰
Ⅰ-4 なまず料理とタイアップした、神社の鯰
Ⅰ-5 吉川市(なまずの里)のシンボル、金色の鯰

Ⅱ 近江・京都の鯰
Ⅱ-1 竹生島・弁財天の鯰
Ⅱ-2 農業守護の鯰
Ⅱ-3 禅の公案(問題)の鯰 瓢箪鯰(ひょうたんなまず)

Ⅲ 九州の鯰
Ⅲ-1 阿蘇開拓に抗(あらが)った鯰
Ⅲ-2 領主を救った産土神の鯰
Ⅲ-3 美肌のご利益のある鯰

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Ⅰ 関東の鯰

Ⅰ-1 要石(かなめいし)で押さえ込まれた地震大鯰

首都圏では、今後30年間に震度6以上の地震が発生する確率は80%を超えていると発表されています。南関東で起きた過去8回の大地震の中で、首都直下地震に特に類似するとされるのが1855年11月11日の「安政江戸地震」です。ペリー提督が黒船で来航した2年後、第13代将軍 徳川家定の時代に発生しました。江戸の庶民の間では、地震は地中の大鯰(なまず)が暴れて引き起こすものと信じられていました。地震が起きないようにと、この大鯰を地中に押さえ込んでいるとされる「要石(かなめいし)」が鹿島神宮と香取神宮に祀られています。また、大村神社(伊賀市)にもあります。

       鹿島大神(武甕槌大神)が大鯰を押える図
       (左)大鯰の碑(鹿島神宮境内) (右)鹿嶋要石真図(錦絵:国際日本文化センター)

要石が一般に広く知られるようになったのは、この安政の大地震(1855)以降で「地震鯰絵」が大量に出回った頃だとされています。また、それでも安政の大地震が発生したのは、地震が起こったのが神無月(11月)で、鹿島・香取の両神が出雲に行っていて留守だったので、要石の霊力が弱っていたからなどとも噂されました。

鯰が地震の主(ぬし)と定着したのは、この安政江戸地震で地震鯰絵が大量に出回った以降て、以前は、むしろ「龍」や「地震虫」が地震の主とされていました。また、鯰が引き合いにだされたのは、近江の竹生島の弁財天を守る琵琶湖の大鯰に関連するとの説もあります。

鹿島神宮
祭神:武甕槌(タケミカヅチ)大神=鹿島大明神 茨城県鹿嶋市宮中2306-1
香取神宮
祭神:経津主(フツヌシ)大神 千葉県香取市香取1697

要石(かなめいし)

地震の主であるとされる大鯰を押さえ込んでいる要石は、鹿島・香取の両神宮に有ります。要石について、鹿島・香取神宮の案内板などを参照しますと・・・

『古伝によればその昔、鹿島神宮の武甕槌神、香取神宮の経津主神の二柱の大神は天照大神の大命を受け、芦原の中つ国を平定し、常陸・下総付近に至った。しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。これは地中に大きな鯰魚(なまず)が住みつき、荒れさわいでいるせいだと言われていた。大神たちは地中に深く石棒をさし込み、鯰魚(なまず)の頭尾を押さえ地震を鎮めたと伝わっている 』(その石棒が要石と呼ばれます)また、鹿島神宮の要石の説明には、要石は大神の御座、磐座(いわくら)とも伝えられる霊石とも記されています。

 『鹿島神宮の要石は凹形、香取神宮の要石は凸形で地上に一部だけをあらわし、前者は大鯰の頭、後者は尾を押さえているとも、両者の石は地中で繋がっているともいわれます。また、要石(石棒)の深さは幾数十尺もありその極まる所は知らず、水戸黄門「仁徳禄」に七日七夜掘っても掘っても掘り切れずと書かれている』と案内にあります。なお、上掲の右図の鯰絵「鹿嶋要石真図」は、わずかに地上に出ている鹿島神宮の要石からの「吹き出し」になっていて、要石の奥底で鹿島大神が地震を起こす大鯰を剣で取り押さえていると、要石の説明をしています。

       鹿島神宮の要石(凹形)                香取神宮の要石(凸形)

参考:鹿島・香取神宮の要石案内 (クリック → 拡大)

大村神社の要石と鯰

大村神社   三重県伊賀市阿保1555
祭神は大村神ですが、相殿配神として、常総の、鹿島神宮の武甕槌神、香取神宮の経津主神の二柱も神護景雲元年(767)に奉祀されています。
「当社境内の要石社には、要石(かなめいし)が奉斎されており、地震守護の社として知られます。要石は、鹿島・香取の両神宮に祀られていて、地震を引き起こす大鯰(おおなまず)を押さえ込んでいる霊石とされます。配神の武甕槌命・経津主命が、常陸下総を発って三笠山(春日大社)へご遷幸の途次、当社にご宿泊され、「要石」を奉鎮せられたと伝わります。」

要石:要石社の正面の格子の中には、地面に埋まった要石が祀られています。
大村神社の要石社と要石

要石社前の左右には鯰(なまず)の石像が奉納されていて、鯰に水をかけて祈ると防災や厄払いのご利益があるとされます。

大村神社の鯰をあしらった絵馬と授与品

Ⅰ-2 地震鯰絵の鯰

江戸時代、恐れられた災害は、地震、雷、火事、おやじと言われるように、地震がトップでした。安政二年(1855)11月11日の「安政の大地震」で江戸市中は甚大な被害を蒙りました。この直後から、鹿島大神・要石とともに地震を引き起こすと信じられていた大鯰などの入った「(地震)鯰絵」と呼ばれる、多色刷り木版画(錦絵)が市中に数百種類も出回りました。それらは多種多様で、地震後の世相を映すもので、庶民の地震の受け止め方や願望などが描かれていて、復興に向けての過程もうかがえます。
この稿では、これらの地震鯰絵の中から、ほんの数枚を例示しました。

① 要石(鹿島大神)に祈る

①-1 あんしん要石 (国際日本文化研究センター「鯰絵コレクション」)
要石(鹿島明神)に大勢の人が手を合わせて願を掛けていますが、願いは、地震の無い穏やかな世を願うだけでなく、今回は命拾いをしたが、まだ300年は生きたいので、300年は地震の無い世を(老人)とか、地震後お得意様からの依頼が絶えないので体がもたない、すべての依頼に応えたいので10人前働けるような体にしてほしい(大工)、地震で怪我をした人が大勢いるが、自分も怪我をしておもうように治療できない。早く治って全員を治療して儲けたい。(医者)といった、身勝手で無茶な願いも多々あるようです。

①-2 あら嬉し大安日にゆり戻す (国際日本文化研究センター「鯰絵コレクション」

要石(鹿島大神)に大鯰は押さえ込まれ、各地の鯰は詫びを入れ、地震のない日々に戻ったと喜ぶ。これからはずうっと(千年も)地震の無い安全な日が続く世になった、めでたや、めでたや

➁ 地震御守
大地震後に繰り返し起こる余震や今後の地震におびえる人々の恐怖を取り除く地震除けの護符。

➁-1 鹿島大明神地震御守 (IPA「教育用画像素材集サイト」

江戸の地震をおこした大鯰が鹿島明神に剣でおさえられ、その前で日本各地で地震をおこした鯰があやまっている。

➁-2 地震のまもり (印刷博物館)
鹿島大明神に連れられた江戸の大鯰をはじめ各地の鯰たちが、井戸の神と地の神を従えた天照大神の前で地震を起こした詫びを入れ、大鯰は手形を押している。その手形の証文には、梵字の呪文が刷り込まれており、この梵字を切り抜いて家の東西南北と天井に貼っておくと、再び地震が起きても家を守ることが出来る。また、鯰たちは、今後は地震を起こさず、日本の国土の守護と天下泰平、五穀豊年を守ると誓っている。

➂ 鯰を懲らしめるひとびと

➂-1 鹿島太神宮と要石と大鯰と人々 (消防防災博物館-錦絵に見る安政大地震)

鹿島大明神の威光を受けて要石に扮した役者が地震を起こした大鯰を押さえつけている。鯰を取り囲んで、大地震で被害を蒙った者(注A)が、手に手に得物を持って鯰を懲らしめている。一方、少し離れた左上には、地震の復興景気で儲けた者(注B)が手を出さずに控えて、小さめに描かれている。

 注A(地震の被害者):親-子の恨み、子供-親のかたき、女房-夫のかたき、地主、吉原-女郎、座頭、武士、芸人など
注B(地震で儲けた者):土方、金物屋、材木屋、かや葺屋根、大工、左官、屋根屋、名倉(接骨医)など

➂-2 なまずへのこらしめ (国際日本文化研究センター「鯰絵コレクション」)
鹿島神は要石で鯰を押さえ込もうとしている。地震で儲かった大工や左官は鯰をかばって鹿島神を押しとどめている。一方、地震で被害を蒙った花魁(吉原被害)は煙管で、商人は算盤で、貸し本屋は本で鯰を懲らしめ、同じく被害者である焼死骸骨(亡者)は鯰をかばう大工の襟首をつかみとっちめようとしている。

➂-3 鯰と鹿島大明神の首引 (国際日本文化研究センター「鯰絵コレクション」)

地震で儲けた復興工事関連の職人などを後ろ楯にした鯰と、地震で被害を蒙った人たちを後ろ盾にした鹿島神の、首引き。地震は、地震で被害を受けた者と復興で儲けた者とに、二分した。


④ 地震で亡くなった人
焼死大法会図 
(国際日本文化研究センター「鯰絵コレクション」)
地震での焼死者(黒い骸骨)など亡くなった人を法要する。たくさんの亡者の中で僧侶が経をあげる。


Ⅰ-3 防災の鯰

なまず広場:豊島区東池袋5-43-1 (第10辻広場)

「なまず広場」は住宅地の中にある小さなポケットパーク。防災貯水槽にもなっているミニ防災拠点。シンボルの御影石のナマズ像があり、以下のように案内されています。

「昔の人は、地震が起こるのは地下に住む大鯰が暴れるからだと信じていた。すなわち、注意深い観察によって、鯰の動きと地震とが関係していることに気づいていた。現代の科学では、鯰が地震の前に生じる地電流を感じて暴れることが分っている。ただし、鯰は地震以外の電流の変化も感じるので、鯰が暴れると必ず地震が起こるとは限らない。私達はこうした生きもの達の環境の変化に対する敏感さを研究したり学ぶことにによって、防災の備えとしなければならない。」

Ⅰ-4 なまず料理とタイアップした、神社の鯰

雷電神社 群馬県邑楽郡板倉町板倉2334
当社は他の雷電社と区別するため「板倉雷電社」とも呼ばれ、関東地方の雷電社の総本社的存在。主祭神は、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)、大雷大神(おおいかづちのおおかみ)、別雷大神(わけいかづちのおおかみ)の三柱。

なまずについて(雷電神社HP):「上州・板倉の雷電さまにお参りしたら、ナマズを食べずに帰れない、として有名です。付近で食べられるナマズの刺し身、天ぷら、煮物は、お酒ともよく合って美味です。ナマズは板倉地方にとって昔からの神の賜物。雷電神社にある「なまずさん」は、なでると地震を除けて、元気回復、視力改善、自信が湧き出るとして、親しまれております。ここだけのナマズの御守もあります。」(鯰は「神の賜物」とはあるものの、この神社の祭神「雷電神」との由縁は記されていません)

このHPの記述は、当地の鯰料理の宣伝にもなっています。神社と門前町とは一体(持ちつ持たれつ)の関係だからでしょう。「なまずさん」の像は本殿裏手の別棟の中に、数体の小雷電さまを背に祀られています。また、なまず料理を食べさせる店は門前に並んでいます。なまずを祀る一方で、なまず料理を推奨しています。ちょっと違和感があります。これは、うなぎをお使いとする虚空蔵菩薩を祀る社が「うなぎのかば焼き」を、牛を神使とする天神社が「ビーフステーキ」を食べるように推奨する図式に近く、むしろ「食べてはいけない」とするのが一般的です。
雷電神社の「なまずさん」 と 門前のなまず料理屋

Ⅰ-5 吉川市(なまずの里)シンボル、金色の鯰

埼玉県吉川市「なまずの里よしかわ」
吉川市は、埼玉県南東部に位置し、平成8年に「吉川市」となった。中川、江戸川という2つの川に挟まれた地形をいかした文化が育まれ、川魚料理という食文化が根付き、江戸時代初期には、河岸付近に川魚料理を売り物にした料亭が軒を連ね、物産とともに集まった人々の舌を楽しませた。また、日常的に子供たちは川で遊び、家庭では、川から採れたなまずの身を包丁でたたき、みそなどを練り込み、丸めて揚げた「なまずのたたき」などが郷土料理として親しまれてきた。この川に親しんできた歴史・文化が、吉川が「なまずの里」といわれるゆえんとなっている。近年は、市内で、川魚料理(なまず料理)の他、なまずの養殖が行われたり、数々のなまずグッズも生み出され、「なまず」にちなんださまざまな事業が行われている。JR武蔵野線吉川駅南口ロータリーには、そんな「なまずの里よしかわ」を象徴する「金色のなまずモニュメント」があり、訪れた方を出迎えてくれいる。(吉川市HP)

吉川駅南口の金色の親子鯰
武蔵野線吉川駅南口の金色の親子の鯰像は、金胎漆塗り金箔仕上げのモニュメントで、人間国宝、室瀬和美氏によるもの。平成7年5月29日設置。親鯰の頭尾の長さは5mある。「なまずの里よしかわ」のシンボル。市民に親しみのある「なまず」を題材に、親子・漆・金の組み合わせにより、「なまず」からは川、自然、生命力を、「親子」からは絆、やさしさ、平和を、「漆」からは雅、麗しさ、歴史を、「金」からは発展、栄華、未来等をそれぞれ表現しています。(以上吉川市HP)
左)吉川駅南口のなまず像  (右)吉川市のイメージキャラクターの「なまりん」


Ⅱ 近江・京都の鯰

Ⅱ-1 弁財天のお使いの鯰

竹生島・宝厳寺と都久夫須麻神社:滋賀県長浜市早崎町1664-1665

琵琶湖に浮かぶ竹生島には現在は宝厳寺と都久夫須麻神社の2社が併存してますが、明治7年(1874年)以前は神仏習合で弁財天を祀って竹生島明神などと称されていました。一般に、弁財天のお使い(神使)は龍、蛇、亀とされますが、この竹生島では、龍・蛇と並んで、「鯰/なまず」もまたお使いとされます。なお、琵琶湖近辺(近江、京都など)では、おそらく竹生島の弁財天に習ってのことと思われますが、鯰が弁財天のお使い(神使)とされている社もあり、鯰はこの地区に限った独特の神使となっています。

琵琶湖・竹生島

琵琶湖の竹生島や弁財天の鯰に関して、古文、伝承、昔話などに以下のような記述があるとのことです:① 竹生島で海竜(龍)が大鯰に変身じて(または、鯰が龍に変身して)大蛇を退治した(竹生島縁起)、② 竹生島は金輪際の島(大地の最深部から立ち上がった長大な柱に座す島)で、大鯰が七重に取り囲んで守護している(竹生島縁起など)、③ 「琵琶湖では黄白色の鯰(イワトコナマズのアルビノ)が捕れると「弁天鯰」と呼んで漁師はすぐに放流した(湖中産物図證など)、④ 弁財天は鯰の踊を気に入り、満月の夜には島の北岸に湖中の弁財天を守護する鯰が集まり、弁財天に見てもらおうと、月光に戯れ跳ねまわっていた(昔話)。

ところが、このような伝承から竹生島では鯰も弁財天のお使い(神使)のはずですが、現在の竹生島では下掲のように龍、蛇の像は見れますが、鯰の姿は見当たりません。
竹生島・宝厳寺の弁財天像

               竹生島・龍神拝所の龍

竹生島・白巳大神祠の蛇

大洞弁財天(長寿院)(おおほらべんざいてん)滋賀県彦根市古沢町1139

琵琶湖畔にある彦根藩の第四代城主井伊直興公が、元禄8年(1695)、彦根城の鬼門(北東)にあたる大洞山(おおほらざん)中腹に長寿院を建立して弁財天を祀った。大洞弁財天と呼ばれる。弁天堂は日光東照宮の寛永大造替を手掛けた甲良大工によるもので、彦根日光とも呼ばれる。

弁天堂正面の欄間の彫刻は、当初の華麗さがしのばれはするが、現在ではすっかり色あせてしまっている。この欄間彫刻に弁財天のお使いとされる鯰の像がみられる。琵琶湖(竹生島)周辺(=近江)や京都にみられる「弁財天のお使いの鯰」である。また、目を凝らせば格子を隔てて奥に鎮座する、ご本尊の馥郁(ふくいく)とした弁財天座像も拝顔できる。
左:正面欄間の鯰の彫刻             右:本尊の弁財天座像



今宮神社 宗像社(弁天社)
京都市北区紫野今宮町21

境内の末社に、宗像(むなかた)社があり、田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀ります。素盞鳴尊(すさのおのみこと)の十握剣(とつかのつるぎ)から、天照大神との誓約(うけい)の際に生まれられた宗像三女神です。この宗像三女神は宗像大社(福岡県宗像市)の祭神で海の神などとして全国で祀られていますが、インド伝来の弁才天と習合して弁財天ともされ、江島神社(神奈川県藤沢市)などにも祀られています。
弁財天のお使いの鯰

宗像社の社壇の側面の台石に長さ90㎝程の鯰の彫り物がありますが、鯰は弁財天の使者として彫られたものと云われています。


神泉苑 増運弁財天堂
 京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町166

神泉苑の境内に法成就池を背景に弁財天堂があります。案内によると、ご祭神の増運弁財天は、安岐の宮島・京都繁昌神社の弁財天と同体で日本三体といわれていて、悪縁を切り、良縁を結び、商売繁盛の神とされています。
この弁天堂の鬼瓦や流れ棟の留蓋には鯰が入れられています。ここの弁財天のお使いは、竹生島と同様に、「なまず」なのです。
弁財天堂と鯰に載る弁財天絵馬
                     弁財天堂の鬼瓦と留蓋の鯰

Ⅱ-2 農業守護のなまず

藁園神社(わらそのじんじゃ) 滋賀県高島市新旭町藁園 2060

琵琶湖に近いこの社の鯰は、災害や病虫害を防いで五穀豊穣をもたらしてくれる、農業守護の鯰で、社では毎年「なまずまつり」も行われています。鯰との謂れは、平成9年11月に置かれた「なまずの石像」の建立主旨によると・・・

「正嘉2年(1258)の大地震で社殿が倒壊、翌年の天正元年(1259)には地震もともなう大雨による洪水で社殿が浸水した。このとき現れた「大なまず」を時の神主が退治したところ、雨は止み、なまずを地中に祀ると地震も収まった。
また、天保3年(1646)雨が少なく温暖で農作物に害虫が異常発生したので、困った村人が三日間害虫駆除祈願をしたところ、「なまず」が至る所に現れて害虫を食い尽くしてくれた。

                  「なまずまつり」について
           境内の鯰の石像(平成9年11月建立)                 色紙

Ⅱ-3 禅の公案(問題)の鯰 瓢箪鯰(ひょうたんなまず)

妙心寺退蔵院 都市右京区花園妙心寺町64

妙心寺内の退蔵院は、室町時代の狩野元信による「枯山水庭園」や造園家中根金作氏の「余香苑」で知られますが、国宝「瓢鮎図」を所蔵することでも知られます。

瓢鮎図(ひょうねんず)
鮎図は、瓢箪(ひょうたん)で鯰(なまず)を押さえる図で、山水画の始祖とされる如拙が足利義持の命により描いた日本最古の水墨画です。 画図は、農夫が瓢箪で鯰をどうして捕らえるか?という禅の公案(問題)で、上部に五山の高僧、三十一人によるさまざまな答えが自書されています。それらの答えの一つを意訳すると、「瓢箪でおさえた鯰で吸物をを作ろう、ご飯がなければ砂でもすくって炊(た)こうじゃないか」と、あります。(以上案内板を参照)   退蔵院の瓦(鯰と瓢箪)

                  ☟「瓢鮎図」 部分図

Ⅲ 九州の鯰
九州にはなまず(鯰)を祀る社がい多い。これは、古代、阿蘇開拓に際して出現した「大鯰の伝説」の伝播によるものかもしれない。

Ⅲ-1 阿蘇開拓に抗(あらが)った鯰

阿蘇・国造神社の鯰社 熊本県阿蘇市一の宮町手野2110
国造神社は延喜式神名帳に載る古社で、阿蘇神社の東に位置するので「東宮」とも呼ばれます。祭神は速瓶玉命(はやみかたまのみこと)で、阿蘇神社の主祭神の健磐龍命(たけいわたつのみこと)の娘に当たります。速瓶玉命は、阿蘇開拓の租とされる父神の健磐龍命と共に阿蘇の地を開拓し、農耕の振興を図るなど阿蘇の国造に尽くされたとされます。

阿蘇の開拓に際して、下記のような「鯰にまつわる伝説」があり、その大鯰の霊はこの国造神社の「鯰社(鯰宮)」に祀られています。

阿蘇開拓に抗(あらが)った鯰 鯰社の案内板(下掲)より
『建磐龍命が阿蘇の火口湖を立野の火口瀬を蹴破って干拓された時、大鯰が出現、阿蘇谷半分かけて横たわっていた(大鯰が横たわってカルデラ湖の水抜きの邪魔をした)。ミコトが鯰に向かって「多くの人々を住まわせようとして骨折っているが、お前がそこに居ては仕事も出来ぬ」と言われると、鯰は頭をたれてミコトに別れを告げるように去っていったと伝えられている。ミコトはその湖の精であった鯰の霊をまつると同時に鯰を捕ることをかたく禁じられた。 祭神が鯰の霊ということで、皮膚病ことにナマズハダに霊験があり、今でも全快すると鯰の絵を書いて、神社に奉納する風習が残っている。』



鯰は、自ら去ったのではなく、退治された(切り殺された)との伝承もあるようです。中央からやってきた強力な勢力が、必死に抵抗する地元在来の勢力(=鯰)を排除する、図式です。なお、鯰社は小祠で鯰の像は壊れかけた小さな陶製のものしかありません。

Ⅲ-2 領主を救った産土神(大森宮)の鯰

大森宮 福岡県福津市上西郷802
この社は、筑前国宗像郡の蓑生郷の宗社で、上西郷など五ケ村の産土神を祀り、飯盛山の麓大森に鎮座し大森宮などと称していた。
大森宮入口(左になまず像)


領主の命を救った鯰
 室町時代中頃、西郷(福間町)を領地とし大森宮の神職を兼務していた河津興光は、大内家の命で舟岡山の戦いに参戦したが、深手を負って河を渡ることが出来ず一命を失うところだった。その時、不思議なことに突如、大鯰が背に鞍をつけて出現した。興光は、その鯰に乗って河を渡り本陣に帰りつき、命拾いをした。
無事帰館した興光は、「大鯰は、西郷の産土神、大森宮の御祭神お使いに違いない」と、鯰を神の使いとして祀り、以後この地で鯰を食べることを禁じたという。

奉納額絵 と 拝殿前の阿吽の鯰(尾は破損)明治3年(1870)奉献


Ⅲ-3 美肌のご利益のある鯰

豊玉姫神社 佐賀県嬉野市嬉野町大字下宿乙2231-2

美肌の湯として知られる、嬉野(うれしの)温泉街の中にある神社。境内にある縁起によると、「豊玉神社の歴史は古く、天正年間(1573-92)兵火のために消失したが、元和年間(1615-24)には社殿を再建し、藩主鍋島直澄の祈願所となった。以来、歴代藩主はじめ地元民の尊崇を集めてきた。祭神の豊玉姫は海神の娘で竜宮城の乙姫様として知られ、古来より水の神、海の神として崇敬されています。」
「美肌の神様」豊玉姫神社 縁起 →

豊玉姫は、嬉野村の池で六尺もの大なまずが汚れて傷つき苦しんでいるのを見て、川辺に湧き出るお湯をかけてやった。すると、なまずは白く、きれいな肌になって元気になった。以来、これに感謝した大なまずは姫の「お使い」となり、嬉野川を支配し、郷の守についていて、国に大難があると現れて、神託を告げたという。また、このお使いの「なまず」は肌の病にご利益があるとされ、なまずに触れると、皮膚病も治り美肌になったという。

神社では、豊玉姫は「美肌の神様」で、姫のお使いの「なまず」に水をかけて祈ると、美肌になるご利益があるとして、境内に「水かけナマズ」を置いています。
神社境内の白磁の「水かけなまず」