ちょうどひと月前に、碓氷峠(うすいとうげ)でバスの転落事故があったばかりです。 碓氷峠は、 日本武尊(やまとたけるのみこと)が八咫烏(やたがらす)に導かれて頂上に登り 「あづまはや・あゝわが妻よ!」と嘆いた峠と伝わります

碓氷峠で、本年(2016)、年初に痛ましいバス転落事故がありました。

『1月15日、長野県軽井沢町の国道18号線碓氷バイパスの入山峠付近(軽井沢駅約2kmの群馬県・長野県境付近)で、41人が乗ったスキーツアーの大型バスがガードレールを突き破って道路脇の斜面に転落。運転手2人と前途ある大学生13人の計15人が死亡し、大学生ら26人が負傷。』

 

 東征の帰路、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、八咫烏(やたがらす)に導かれて碓氷峠に登り、亡き妻を偲んで「吾嬬者耶(あづまはや・あゝわが妻よ!)」と三度嘆かれたと伝わります。峠の頂には、日本武尊の創建とされる熊野神社があり、八咫烏を祀る社祠もあります。

今日 私たちは、年初のバス事故以降、碓氷峠で、吾嬬者耶(あづまはや)ではなく、亡くなった若い学生たちを偲んで 吾児者耶(あこはや・あゝわが子よ!)と嘆かねばません。また、八咫烏は交通安全・道中安全のお守り。一層のご加護とご利益をお祈りしましょう。

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碓氷峠の熊野神社

長野県と群馬県の県境がある、中山道碓氷峠(旧碓氷峠)の頂上、標高1200mに鎮座し、日本武尊と熊野三神を祀っています。社の中央が長野県と群馬県に分かれた珍しい神社で、一つの神社でありながら、二つの宗教法人となっていて、長野県側は熊野皇大神社、群馬県側は熊野神社になっています。宮司も二人おります。また、賽銭箱なども一つの社の前に二つあり、祈祷、お守り、朱印、社務所も別になっています。

熊野皇大神社(長野県側) 長野県北佐久郡軽井沢町峠町2

碓氷峠 熊野神社(群馬県側) 群馬県安中市松井田町峠1番地

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1 県境で2分された社

 

 縁起 当熊野神社は日本武尊により勧請された神社と伝えられています。神社の縁起によれば、『景行天皇40年(西暦110年)大和朝廷の命を受けた日本武尊は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て碓氷坂に差し掛かったところ、濃霧で道に迷ってしまった。すると、紀州熊野山の一羽の大きな霊烏(八咫烏・やたがらす)が現れて、梛(なぎ)の葉を尊の御前に落としながら先導し、尊はその葉をたどって無事頂上に達することができた。尊は八咫烏の導きをまさに熊野神霊のご加護と感謝し、碓氷峠の頂上に熊野神を祀った。人皇十二代景行天皇の御代の勧請とされる。』

 

日本武尊と八咫烏と熊野午王札(宝印)

上記縁起に因んでこの社でも、熊野神の神使である八咫烏が神使とされています

八咫烏(やたがらす)は、太陽に棲み、太陽の象徴とされます。神武天皇が熊野の山を越え奈良に征く際に、天照大御神から道案内として遣わされ、熊野神の神使とされました。2 熊野速玉大社神紋

碓氷峠で、日本武尊を梛(なぎ)の葉を落として山頂へ導いた八咫烏は、熊野三山の一つである「熊野速玉大社」の八咫烏です。熊野速玉大社のご神木は梛(なぎ)で、右に見られるような三本足の八咫烏が梛を咥えている神紋を用いています。

烏午王札(からすごおうふだ)

烏午王札(からすごおうふだ・宝印)は、熊野神(熊野権現)のお使いである八咫烏と宝珠を組み合わせて文字を成す熊野山独特の「ご神符」です。人々をあらゆる災厄から護るご神札(護符)とされますが、「誓約書」や「起請文」の用紙ともされ、熊野御師や熊野比丘尼により各地に頒布されました。

碓氷峠の熊野神社の烏午王札

3 碓氷峠熊野神社烏午王 千羽の烏の内、ここに描かれた72羽が家の守り役といわれ、さらにその内の三羽の逆さ烏(下向きの烏)が過去、現在、未来を司り、熊野の神のご神徳により三世代にわたって逆さを見ない、即ち、幽世に世代順に旅立てると伝えられます。

 

 

 

参考 熊野三山の烏午王札: 左-熊野本宮大社 中-熊野権現速玉大社 4 熊野三山-熊野牛王札右-熊野那智大社

 

 

日本武尊とあづまはや

日本武尊が亡き弟橘媛(おとたちばなひめ)を偲び「あづまはや(あゝわが妻よ!)」と嘆いた場所は、日本書紀では長野・群馬県境の碓氷峠(薄日嶺)となっていますが、古事記では静岡・神奈川県境の足柄峠(足柄の坂本)となっています。(また、薄日嶺は現在の碓氷峠付近ではなく、鳥居峠などとする説もあります)

碓氷峠の「あづまはや」 —日本書記

日本書紀では、日本武尊が「あづまはや」と嘆いたのは、碓氷峠だと記されています。碓氷峠は信濃・信州(長野県)と上野・上州(群馬県)の国境の峠(海抜1200m)です。

5-1 碓氷峠あづまはや 八咫烏(やたがらす)の案内で碓氷峠の頂上に達した日本武尊は、霧が徐々に晴れ、眼下に棚引く雲海から海を連想され、相模灘で荒海を鎮めるため身を投じられた御后の弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲(しの)んで「吾嬬者耶(あづまはや・あゝわが妻よ!)」と三度嘆かれたと日本書紀に伝えられています。また、近隣には、霧積・吾嬬・吾妻・妻恋など日本武尊に因んだ地名もあります。

碓氷峠 熊野神社境内            クリック→ 拡大

5-2碓氷峠あづまはや

 

参考  足柄峠の「あづまはや」 —古事記

古事記では、日本武尊が「あづまはや」と嘆いたのは、足柄峠だと記されています。足柄峠は駿河国(静岡県)と相模国(神奈川県)の国境の峠(海抜759m)です。

足利峠の案内板より 倭建命(やまとたけるのみこと)(日本武尊)   クリック→拡大 6 足柄峠あづまはや

『古事記』(和銅5年・712年完成)によれば、景行天皇の皇子 小碓命(おうすのみこと)は、九州の熊襲建(くまそたける)を征服した後、倭建命(やまとたけるのみこと)と名を改めた。 九州から大和へ帰った命は、天皇より東征の命令を受け、上総(千葉県)へと出発した。 相模(神奈川県)では野火の難を草薙の剣(くさなぎのつるぎ)で無事切りぬけ、いよいよ相模半島(三浦半島)から海路、目的地へ向った。船が大海原にさしかかった時、海の神の怒りにふれたか、平穏な海は一瞬にして怒濤さかまく荒海に変った。この時連れの弟橘媛(おとたちばなひめ)は、荒狂う波間に身を投じ、神をなだめ海を静めた。

上総の岸へ無事着いた命は、任務を果したその帰路、足柄峠の頂に立ち、再び見ることはないであろう東の海をながめ、あの橘媛を思い「吾妻はや」(あゝわが妻よ)と嘆き悲しんだのだった。                    

   足柄峠の展望               クリック→ 拡大7 足柄峠の展望

 

付録 碓氷峠・熊野皇大神社の狛犬

室町時代中期の作と伝えられ、長野県内では最古の狛犬 7 狛犬3