鹿(シカ)も鹿島立ち
鹿島神宮の祭神、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は、 奈良の春日大社の祭神として勧請(神仏の霊を移し祀ること)されました。その際 、命は、常陸(茨城県)の鹿島から 白鹿に乗って出立され、一年ほどかけて 奈良の御蓋山(ミカサヤマ/春日大社)に至り鎮座された、とされます。このことに因んで、旅に出ることを「鹿島立ち」といわれるようになりました。
奈良の春日大社の象徴ともされるシカは、常陸(茨城県)の鹿島からはるばる連れてこられたシカが発祥なのです。鹿も「鹿島立ち」したのです。この項では、この「シカの行程」を追ってみました。
行程:Ⅰ. 鹿島神宮(茨木健県鹿島市)→ Ⅱ. 鹿島神社(東京都江戸川区鹿骨)→ Ⅲ. 立木神社(滋賀県草津市)→ Ⅳ. 春日大社(奈良市)⇆ Ⅴ. 枚岡神社(元春日・大阪府東大阪市)
なお、本年(平成28年、2017)は、春日大社が、20年に1度、社殿の建て替えや修繕を行う「式年造営」の年に当たります。60回目になるとのことです。この期に合わせて、東京国立博物館で「春日大社・千年の至宝」展(2017・1/17~3/12)も催され、神鹿は当展の主要なテーマの一つとされていました。
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常陸国の鹿島神宮の祭神、武甕槌命は、春日大社の祭神として勧請され、神使のシカに乗って常陸の鹿島から奈良へ向かって出立したとされます。
鹿島神宮 茨城県鹿嶋市宮中2306-1
鹿島神宮の祭神である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)ところに、天照大神(アマテラスオオミカミ)から使者が来て、「香取神社(千葉県佐原市)の祭神、経津主命(フツヌシノミコト)と共に出雲の国へ行って、大国主命に、出雲国を自分(天照大神)に譲るように説得してきなさい」とのことでした。この時の天照大神の使者、天迦久神(アメノカグノカミ)は鹿の神霊だったとされることから、鹿島神宮の神使は鹿と定められたと伝わります。神社名(地名)も「香島」が「鹿島」になりました。なお、武甕槌命、経津主命は共に「剣の神」(武神)で、出雲国に出向いての強談判(コワダンパン)の結果、大国主命に「国譲り」をさせること(葦原中国 -あしはらのなかつくに-の平定)に成功しました。(古事記など)
鹿島神宮の鹿園(ろくえん)の鹿と絵馬
常陸(ひたち)国(茨城県)の鹿島神宮の祭神、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)の神使は鹿(シカ)です。武甕槌命は、奈良の春日大社の祭神として勧請されて、神護景雲(じんごけいうん)元年(767年)6月21日、鹿島から白鹿に乗って(鹿を引き連れて)出立し、一年ほどかけて、神護景雲2年(768)に奈良の御蓋山(みかさやま/春日大社)に至った(鎮座された) とされ、春日大社の社司の租、中臣時風(なかとみのときふう)と中臣秀行(ひでつら)がそれに随ったとのことです(春日大社の縁起説話)。この故事に由来して、旅に出ることを「鹿島立ち」といい、シカが春日大社の神使とされたとされます。祭神だけでなく祭神と共に、神使のシカも「鹿島立ち」して奈良に至ったのです。
右図 鹿島立神影図(その1)(かしまだちしんえいず) (春日大社蔵) 春日大社の縁起説話に基づく図
鹿島神宮の門前通りの「鹿島立ちの時計台」と「鹿の像」
注: 鹿島立ちの語源には、上述の外、鹿島・香取の祭神が、出雲へ出向いて「国譲り」をさせた際のことだとか、武士が防人として任地に赴くとき鹿島神に道中の無事を祈願した際のことだとする説などもあります。また、鹿島を出立した日付も、不明だが上述の日付より以前だとするなど諸説あります。
春日大社に勧請されて武甕槌命が奈良へ向かう旅の途中で、病死したシカは村人に手厚く葬られました。
鹿骨・鹿島神社 東京都江戸川区鹿骨4-9-17
明治維新までは五社明神社あるいは五社神社といわれて、旧鹿骨(ししぼね)村の鎮守でした。
「村の口碑によると、昔常陸の国鹿島郡の鹿島大神が、大和国奈良の春日へお移りになる途中、大神のお供をしていた神鹿が急病でたおれたので、村人たちが丁寧に葬って祀ったのが鹿見塚(下掲)で、村人たちは、これを奇縁として武甕槌命の分神と天照大御神ほか三神を勧請して一社を建立し、鹿島神社と名づけたともいわれている(以上、江戸川区教育委員会)。
鹿見塚(鹿見塚神社) 東京都江戸川区鹿骨(ししぼね)3-1-1
「鹿骨発祥の地、鹿見塚」碑がある。鹿島大伸(武甕槌神)が常陸(茨城)から大和(奈良)に向かう途中、大神の杖となっていた神鹿が急病でたおれたので、塚を築きねんごろに葬った所だと伝えられている。「鹿骨(ししぼね)」という地名発祥の地と伝わる。(江戸川区教育委員会)
春日大社の祭神として勧請された武甕槌命は、シカに載って鹿島を発ち奈良へ向かう途中で、滋賀県草津に立ち寄ったとされます。
立木神社 滋賀県草津市草津4-1-3
神護景雲元年(767年)6月21日に武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、常陸国鹿島を立ち給い(旅立つことを鹿島立ちというはこの縁による)この地に着き給う。よって里人神殿を創建して命を祭祀し奉ったのが、当神社の起源であると伝えられる。この時命、手に持つ柿の杖を社殿近くの地にさし給い「この木が生えつくならば、吾永く大和国三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」と宣り給いしが、不思議にも生えつき枝葉が繁茂す。人々その御神徳を畏み、この木を崇め社名を立木神社と称し奉る。
立木神社由緒 と 拝殿前の2連の鹿像(内側は昭和12年奉納)
勧請に応じて常陸国の鹿島神宮からシカに載ってやってきた武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は、奈良の御蓋山(ミカサヤマ)山頂に鎮座しました。
春日大社 奈良県奈良市春日野町160
春日大社は、都が、奈良・平城京に遷された頃、平城京鎮護のため、藤原氏の氏神である常陸国の鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)に迎えた(勧請した)のが礎とされます。この時、武甕槌命は白鹿に乗って御蓋山に来られたとの説話から鹿が神鹿(しんろく・神使)とされました。その後、神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して、武甕槌命(第1殿)の他に、下総の鹿取神宮から経津主命(第2殿)、河内の枚岡神社から天児屋根命(第3殿)・比売神(第4殿)をお招き(勧請)し、あわせて四柱の神を祀ったのが春日大社としての創起とされています。(参照:春日大社の縁起説話、HPなど)
右図 鹿島立神影図(その2)(春日大社蔵) クリック→拡大
白鹿に乗った武甕槌神を中心に、上部には御蓋山と神鏡と神木の榊(さかき)、下部には、武甕槌神に付き添ってきた、春日大社の社司の祖とされる中臣時風・秀行が描かれています。
境内・奈良公園の野生の神鹿 手水所の鹿
全国3000に及ぶとされる春日の御分社の多くに、神使の鹿像が神鹿(しんろく)として置かれています。
枚岡神社は、自社の祭神の天兒屋根命、比賣御神の二神が春日大社に勧請されたのち、春日大社から武甕槌命、経津主命の二神を勧請して、四神を祀っています
枚岡(ヒラオカ)神社 大阪府東大阪市出雲井町7-16
祭神:天兒屋根命、比賣御神、武甕槌命、経津主命
枚岡神社は「河内国一の宮」と崇められてきた古社。主祭神の天児屋根命(アメノコヤネノミコト)は古代の河内国を根拠に大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ヒメミカミ)はその后神です。神護景雲(じんごけいうん)2年(768年)に、天児屋根命・比売御神の二神は春日大社に勧請され祀られました。このことから当社は「元春日(もとかすが)」ともよばれます。
その後、宝亀(ほうき)9年(778年)に春日大社より、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)・経津主命(フツヌシノミコト)の二神を迎えて祭神は四柱になりました。両神は鹿島・香取の神で、共に中臣氏(のちの藤原氏)と縁深い神として知られています。(この際に神使のシカも奈良から同伴されたとおもわれます)