稲荷社の「正一位」と 狐の「命婦」


 

「お稲荷さん」といえば、朱色の鳥居、「正一位稲荷大明神」の幟、狐の石像が、すぐに思い浮かびます。稲荷社は3万社を越すといわれ全国どこにでもあります。ほとんどの稲荷社は「正一位」を名乗り、正一位稲荷大明神と書かれた赤いのぼり旗を立てている社もあります。また、稲荷の狐が「命婦」とも呼ばれ、命婦社のある社もあります。稲荷社の「正一位」、狐の「命婦」とはどういうことなのでしょうか

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稲荷社の正一位とは

稲荷社の正一位とは、京都・伏見稲荷大社の祭神(宇迦之御魂神/うかのみたまのかみ)に朝廷から授与された神階です。この神階が全国に勧請、分祀された稲荷社に広まりました。

伏見稲荷大社 京都市伏見区深草藪之内町68

 

伏見稲荷大社の「正一位の神階奉授」のいきさつ

  先朝の御願寺だった京都・東寺に五重塔の建立が開始された翌年、天長4年(827)、淳和天皇は突然病気で臥せられました。病の原因を占うと、東寺の五重塔建立の用材として(伏見)稲荷山の神木を伐った祟(たた)りだとわかりました。天皇はすぐに稲荷山に使者を遣わして、それまで位階のなかった稲荷神に「従五位下」の神階を授けて怒りを鎮められました。この神階は、稲荷神の神威を誇示するものとなり、その後、次第に昇進して、天慶5年(942)には朱雀天皇より最高位の「正一位」の神階を授かったのです。伏見稲荷大社の祭神(宇迦之御魂神/うかのみたまのかみ)は「正一 位稲荷大明神」と呼ばれるようになりました。

 

伏見稲荷大社 拝殿(写真上段)と楼門(写真下段)

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稲荷勧請

稲荷の勧請とは、稲荷神の分神・分霊を(請願に基づき)他の場所に移して祭る(祀る)ことをいいます

正一位稲荷大明神」の伝播・拡散

江戸時代に入って、稲荷神は「流行神」ともいわれて全国の津々浦々に勧請されて、大きな社から小祠・屋敷神に至るまで3万社をはるかに超える数になりました。稲荷神社の総本社は京都府の「伏見稲荷大社」ですので、全国のほとんどの稲荷神社は(直接・間接を問わず)この伏見稲荷大社から神霊の勧請を受けたものです。

 この頃には、律令制に基づく、神社仏閣の統制もすっかり緩んでいました。元来074 2-2-1、「神階」は、特定の神社に祀られているご神体に対して朝廷から授与される位でしたので、分祀先(勧請先)の神社(の祭神)には神階は引き継がれず、神階を引き継ぐには勅許が必要でした。

 しかし  伏見稲荷大社は「稲荷勧請」に際して、すべて「正一位」の神階を付けて分神しました。その結果、全国の勧請を受けた稲荷神社は、ほとんど全部が「正一位稲荷大明神」を名乗ることになり、「正一位」は稲荷社の代名詞のようになりました。稲荷勧請は「正一位」の勧請といわれる由縁です。この稲荷勧請について、伏見稲荷神社は、下記の「奉行所への回答」(見解)に従って行ったものとしています

 ≪ 奉行所からの照会に対する伏見稲荷神社の回答 ≫ (寛政4年-1792-2月)

稲荷大明神正一位神体勧請の儀は(中略)後鳥羽院建久5年(1194)12月2日行幸のみぎり、『当社は五穀衣食の守護神にて、諸人に尊信せしむべきであって、信心の輩がその所々に鎮祭しているのは、当社の分神である。よって本社勧請の神体には“正一位”の神階を書加えて授くべき』旨勅許くだされましたので、その時以降社司たちは伝来の修法をもって、勧請相授けたのです。その修法は一子相伝であって、門弟等へ伝授したようなことはかつてなく、そのためみだりに他所より正一位神体勧請があったのでは、当社は甚ださしつかえると共に迷惑至極でございます。」(『稲荷社事実考証記』)–伏見稲荷大社HPより、

さらに神階(正一位)を付けて稲荷勧請を行っていたのは伏見稲荷大社やその祈願所の愛染寺だけではありません。古来、朝廷からの位階授与は神祇伯白川家が執行して来たのですが、吉田神道(吉田家)が隆盛して全国の神社や寺の多くを管轄し朝廷とは無関係に位階、神号などの許状「宗源宣旨(そうげんせんじ)」を授与しました。稲荷社の「正一位」も吉田家により授けられた社も多いようです。また、分祀された稲荷社(有名稲荷社)が神階をさらに自社の勧請先に授与することも多く、分祀先の神社が勧請元の神階を勝手に名乗ることもありました。このような中で稲荷神の「正一位」の神階は、爆発的な屋敷稲荷の増加などもあって、全国に拡散し稲荷社の代名詞のようになったのです。なお、神階の制度は明治時代に廃止されましたが、特に稲荷社では、現在も社名に神階をつけている神社が多いようです。

 

 正一位稲荷大明神の幟旗(のぼり)の立つ稲荷神社

千住神社内延命稲荷 東京都足立区千住宮元町24-1   京浜伏見稲荷神社 神奈川県川崎市中原区新丸子東2

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参考・カット 稲荷神姿

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狐の命婦とは

    お稲荷さん、というとすぐ狐を連想します。稲荷社の狐は、稲荷神の眷属(けんぞく)で、お使い・神使というより、稲荷神の身内のような存在です。稲荷の狐は、別名で、「命婦(みょうぶ)」とか、「専女(とうめ)」とかよばれることもあります。なぜか、「年老いた女(雌)狐」の意です。本稿では、「命婦社」の狐について話題にしてみました。(稲荷と狐の関係の由来などについては諸説あって定説はないようです。別稿の「神使の館」の狐の項をご覧ください。)

稲荷社の「正一位」(上掲)は祭神の稲荷大明神に授けられた神階です。稲荷神の眷属の狐に授けられたものではなく、狐が正一位ということではありません。稲荷神の狐は「命婦」とも呼ばれます。「命婦」は「稲荷神に仕える(老)雌狐」をいいますが、稲荷の狐に授けられた、「宮中(朝廷)にも出入りできる」官位でもあります。京都の伏見稲荷大社と佐賀の祐徳稲荷神社には、この命婦を祀る社、「命婦社」があります。

 

伏見稲荷大社 白狐社(命婦社)

伏見稲荷大社 京都府京都市伏見区深草藪之内町68

   白狐社(命婦社)は伏見稲荷大社の本殿の左裏手にある社です。白狐社の案内板には、『祭神 命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)。往古の下社であった「阿古町」がその前身で、白狐霊を祀る唯一の社殿である。』 と、あるだけです。説明不足で意味不明な案内表示です

案内板にある阿古町(あこまち)とは:

 弘仁年間(810~24)のこと、平安京の船岡山の麓に棲んでいた、年老いた夫婦の白狐が「自分たちが持つ霊智(予知能力など)を諸人の役に立てたい」と稲荷山の稲荷神に祈願して、稲荷神の眷属になることを許された。男狐は「小薄(オススキ)」の名を授かり上社に、女狐は「阿古町(アコマチ)」の名を授かり下社に仕えることになった。以後、狐夫婦は稲荷神を参詣する信者の前に現れては、お告げを下すようになり、告狐(つげぎつね)ともよばれた、といわれます。(伏見稲荷大社のHPなどを参照-空海の弟子・真雅僧正が著したとされる『稲荷流記』に載るとのこと-)

祭神の「命婦専女神」とは:

白狐社は、別名「命婦社」とも呼ばれ、上述の阿古町という老雌狐を「命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」として祀る社です。

祭神の「命婦専女神」の、命婦(みょうぶ)とは、「女官などとして殿中に昇れる官位(律令制では五位以上)、またはその資格のある女官(官人の女房)のこと」でしたが、転じて、「稲荷神の眷属の(雌)狐」を意味するようになりました。専女(とうめ)も「稲荷の狐」の別称です。すなわち、命婦専女神とは、「稲荷社の(年経た)雌狐神」といった意味合いになります。特に、伏見稲荷大社の眷属の狐は、祭神の稲荷神が正一位という最高位の神階を持つことから、それに合わせて、単に狐(専女)だけではなく、命婦(官位)の称号が冠につけられたのかもしれません。

 

白狐社(命婦社)                                                  奥社奉拝所(奥の院)の白狐絵馬

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また、稲荷山の稲荷神の眷属の狐に「命婦」の官位がつけられたのには、下記のような伝承もあるとのことです。

 平安時代、藤原祇子(ふじわらのぎし)、別名「進命婦」が、伏見稲荷に足繁く参詣したところ、「阿古町」という老狐が現れてお告げをしてくれた。その後、進命婦は、一介の命婦からついには関白・藤原頼道の北政所(妻)にまで上りつめることが出来た。そこで、進命婦は、これは伏見稲荷の老狐「阿古町」のお告げ(稲荷神の神徳)のおかげと感謝して、自分の「命婦」の官位を「阿古町」に譲った、とされます。

 

参考:太平記にも載る「伏見稲荷の命婦」

応安年間(1368~1375)に成立されたとされる「太平記」の第39巻に「蒙古襲来の項」があります。この中に、074 3-1-2国難に際して、日本中のありとあらゆる神霊と共に祭神の仕者(神使)もまた蒙古軍打倒に馳せ参じ、猛烈な台風(神風)で全滅させた、と書かれています。このとき、馳せ参じた仕者(神使)のうちの一体として「稲荷山の名婦(みやうぶ)」の名があげられています。他に、春日野の神鹿(しんろく)、熊野山の霊烏(れいう)、気比(けひ)の宮の白鷺(しらさぎ)、比叡山の猿、の名も記されています。                   右図  太平記・「蒙古来襲」の部分:読みくだしにしたもの   クリック→拡大

 

祐徳稲荷神社・命婦社

祐徳稲荷神社 佐賀県鹿島市古枝

祐徳稲荷神社の命婦社は、稲荷大神(倉稲魂大神-ウガノミタマノオオカミ-)の神令使(お使い)である白狐の霊を、「命婦大神」として祀る社です。この社の稲荷大神の神使の狐に「命婦」がつけられた経緯には次のような伝承があります。(祐徳稲荷神社のHPから要約)

 光格天皇天明8年(1788)京都御所が火災となり、その火が花山院邸に燃え移った時、白衣の一団が突如現れて、すばやく屋根に登り敢然と消火にあたり、その業火も忽ち鎮火した。
 この働きに花山院公は大変喜び礼を述べ、この白衣の一団に「どこの者か」と尋ねると、「肥前の国(佐賀県)鹿島の祐徳稲荷神社にご奉仕する者(狐)で、花山院邸の危難を知り、駆けつけて消火を手伝った」との返答だった。公はいぶかしんでさらに「私の屋敷などどうでもよい。どうして先ず、御所の火を消しに行かなかったのか」と尋ねると、一同は 「私達は身分が賤しく宮中に上がることは出来ない身なので」と答えて消え去った。
 花山院内大臣はこれは奇妙なことだと、内々に光格天皇に言上されると、天皇は命婦の官位を授けるよう勅を下され、花山院内大臣自ら御前で「命婦」の二字を書いて下賜された、といわれる。

「命婦」とは宮中(殿中)に上がることのできる女官(官人の女房)をいうので、この称号の下賜により、祐徳稲荷神社の神使の狐も宮中(御所)に出入りできる格(官位)を授けられたことになります。また、一般に「命婦」が「稲荷大神の神使の狐」を意味することになった由縁の一つとも言えましょう。

祐徳稲荷神社には、神使の白狐の霊を「命婦大神」として祀る「命婦社」が、背後の石壁山の中腹と山頂にがあり、小祠の命婦社も登拝道に点在します。

 

      (写真上段)祐徳稲荷神社・命婦社(中腹)  と (写真下段)奥の院・命婦社

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以上です