白鷺(しらさぎ)伝説・・・三題

白鷺の浮世絵 ブルックリン美術館所蔵

白鷺(しらさぎ)は全国各地で見られる優美な鳥です。地名をはじめ様々なもの・ところに名づけられています。この稿では、「白鷺伝説」が残る、以下の三題を取り上げました。

Ⅰ 温泉と白鷺伝説
Ⅱ 日本武尊と白鷺伝説
Ⅲ 気比神宮と白鷺伝説

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Ⅰ 温泉と「白鷺(しらさぎ)伝説」

温泉の湯源発見の「白鷺(しらさぎ)伝説」
全国各地の温泉場には、その湯源発見・開湯にまつわる様々な伝説があります。特に、しらさぎ(白鷺)が源泉の発見に寄与したとする「白鷺伝説」が多く、日本最古ともされる道後温泉をはじめ各地の温泉場の開湯伝説とされています。温泉を療養・湯治の場として、白鷺は薬師如来の化身・お使いとするものもあります。この稿では「白鷺伝説」が伝わる、以下の7つの温泉場を取り上げてみました。

 ①   道後温泉(愛媛県松山市)   ⑤ 湯涌温泉(石川県金沢市)
 ② 湯郷温泉(岡山県美作市)   ⑥ 下呂温泉(岐阜県下呂市)
 ③ 山中温泉(石川県加賀市)   ⑦ 白鷺温泉(愛知県豊田市)
 ④ 和倉温泉(石川県七尾市)

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① 道後温泉の白鷺伝説   愛媛県松山市道後湯之町

道後温泉には源泉発見にまつわる「白鷺の伝説」があります。脛(すね)に傷を負い苦しんでいた一羽の白鷺が岩間から噴出する温泉を見つけ、毎日飛んできては足を浸していたところ、傷は完全に癒え、元気に飛び去った。これを見た人たちは大変不思議に思い、入浴してみると、爽快で疲労が回復するとともに、病人もいつのまにか全快したことから、盛んに利用されるようになりました。伝承に由来する白鷺の足跡の残った「鷺石」が現在、放生園に保存されています。また、この伝説に因り白鷺が道後温泉の象徴となりました。

また、道後温泉にはもう一つ「玉の石」と呼ばれる開湯伝説もあります。出雲の国の大国主命と少彦名命が伊予の国を旅したときのこと。急病に苦しむ少彦名命を入浴させると、たちまち元気を取り戻し、喜んだ命は石の上で踊りだしたそうです。伝説の玉の石が本館の一角に保存されています。(なお、大国主、少彦名の両神は、医療の神ともされています。)

以上、下掲の道後温泉本館のリーフレットによる

道後温泉本館のリーフレット

白鷺伝説の「鷺石」(放生園)

道後温泉本館正面(左)と 刻太鼓(ときだいこ)のある「振鷺閣」屋上の鷺(右)


道後温泉本館の柵飾り(左)と浴衣(右)の鷺

道後温泉の駅前広場の石橋のレリーフ(上)と道路縁石花壇(下)の鷺


② 湯郷
(ゆのごう)温泉の白鷺伝説 
 岡山県美作市湯郷

平安時代初期の貞観二年(八百六十年)比叡山延暦寺の高僧円仁法師は西国巡行出発の前夜、薬師如来様が枕辺に立たれ「美作国塩垂山の麓に温湯が湧き出している。これは薬湯で一切の病気を治すことが出来る。汝は彼の地に行って小堂を建て、我が像を安置せよ。永久に守護するであろう。」と告げられた。円仁法師は幾日かを重ね、美作の国楢原の里にお泊りになった。その夜、童子が枕辺に立ち「汝は明日塩垂山の麓で一羽の白鷺を見るであろう。それは薬師如来の聖願の霊である。」と言って姿を消した。明くる日、円仁法師はこの塩垂山麓に登り、周囲の風景を眺めていると、一羽の白鷺が葦の生い茂ったきれいな水溜りに円仁法師を待つかのように立っていた。その白鷺は円仁法師が近づいても飛び立つこともなく静かに身を療していた。そこで円仁法師は手にその水を汲んでみると温かく、味わってみると塩気があり、薬湯であることが分かった。これは薬師如来聖願の霊地であるとしてこの温泉を「鷺の湯」と名付けられた。このように「鷺の湯伝説」が息づく。                   *資料・湯郷温泉観光協会より
(以上 http://ww1.tiki.ne.jp/~k_fukuda/onsen.htm 様から引用させていただきました)

湯郷温泉の「円仁法師」像と白鷺伝説
比叡山第三世天台座主慈覚大師円仁が貞観二年(860年)作州行脚の際、文殊菩薩の化身白鷺に導かれて湧出温泉を発見せしが湯郷白鷺湯の由来なり。 作州とは美作- みまさか- の異称
白鷺は文殊菩薩の化身とされている。写真下段は円仁像足元の鷺

 

➂ 山中温泉の白鷺伝説 石川県加賀市山中温泉

山中温泉の歴史は古く、今から1300年前に奈良時代の高僧・行基が発見したと伝えられています。行基は丸太に薬師仏を刻んで祠を造り、温泉のお守りとしました。多くの人が山中を訪ね、その湯で病と疲れを癒したとされます
それから数百年の後、戦国の世となって温泉は廃れ、山は元の静けさに包まれました。ところが平安の終わり治承の頃、能登の領主・長谷部信連がこの地を訪れ、鷹狩りをされたときのことです。一羽の白鷲が山かげの小さな流れで足の傷を癒していましたこれを不思議に思い近づくと、一人の娘がどこからともなく現れ「私は薬師如来なり、ここには昔から人々の病を治すよい温泉がある。永くお前の来るのを待っていた。再びこの温泉を開かれよ」と言うや、白雲に乗ってはるか遠くに消えていきました。信連は怪しみながらもそこを掘ると、芦原の中から五寸ばかりの薬師如来が現れ、美しい温泉がこんこんと湧き出てきました。驚きも喜んだ信連は、ここに十二軒の館を築き、人々のために湯宿を開いたのが、山中温泉の旅館の始まりだと語り継がれています。(以上、山中温泉観光協会・旅館協同組合のHPより)

山中温泉の白鳥伝説と「たわらや」 ({たわらや」HPより)

 

④ 和倉温泉の白鷺伝説  石川県七尾市和倉町

日本でも珍しい”海の温泉”が湧き出る和倉には、一羽のシラサギによって湯脈が発見されたという言い伝えが残っています。和倉温泉の歴史は、およそ1200年前にはじまります。大同年間(806年~810年)の温泉湧出の後、地殻変動により沖合60メートルの海中に湧き口が移動したと伝えられます。それから時代を経た永承年間(1046年~1053年)、和倉に暮らしていた漁師夫婦によって湯脈が発見されました。七尾湾の沖合で、傷ついた足を癒すシラサギを見つけた夫婦が、不思議に思って近づいてみると……、そのあたりから温泉が湧き出ていることが分かったのです。
寛永18年(1641年)、湯治の湯として利用しやすいように、加賀藩三代藩主・前田利常が湯口の整備を命じ、周囲を埋め立てて湯島を造らせました。・・・延宝2年(1674年)には加賀藩の命により、書き間違いを防ぐため「涌浦」を「和倉」と改めます。(以上、和倉温泉観光協会・和倉温泉旅館協同組合のHPより)

「涌浦(=和倉)の湯壺」の鷺

 

⑤ 湯涌温泉の白鷺伝説  石川県金沢市湯涌町

湯涌温泉の発祥 養老の昔(七一八年頃)、農夫が体を癒す白鷺を見て、温泉の湧き出るのを発見したと伝えられる説があるほか、白山を開いた泰澄太師の発見とも伝えられています。
藩政時代には、歴代藩主の「湯治ゆ」として加賀藩御用達の湯であったとされています。 大正六(一九一七)年九月、「宵待草」の詩と特異の美人画で知られる竹久夢二が笠井彦乃と約一ヶ月にわたる「至福の刻」を過ごしたロマンの湯町としても知られ、九軒の情緒あふれる湯宿が集まったこの湯涌は、「金沢の奥座敷」として重宝がられ総湯「白鷺の湯」とともに旅人の心と身体を癒し続けています。(以上、湯涌温泉観光協会のHPより)

湯涌温泉薬師寺:白鷺伝説ゆかりの源泉臼の案内板
白鷺伝説
養老二年(718年)元正天王の御代、この山里に一羽の鷺舞い下り、地に身を伏せて俄かに動く気配なし。里人不審に思い近寄り見れば、初めて湯の湧き出であるを知りぬ。直ちに井を掘り試みしに高温多量の薬湯、枠となしたる石臼を溢れ迸(ほとばし)り、昼夜をわかたぬ霊泉のありさまに、人々驚喜して里の名を湯涌とぞ名付けけり。

 

⑥ 下呂温泉の白鷺伝説  岐阜県下呂市湯之島

下呂温泉の白鳥伝説と醫王霊山温泉寺縁起 (以下 温泉寺のHPより)
「天歴年中この地の山中に、はじめて温泉湧出せり。地名を湯ガ峰という。」『飛州志』『斐太後風土記』ともに湯ガ峰の温泉湧出を天暦年間(947~957年)と記していることから、下呂温泉は一千年以上の歴史を持つといわれている。
しかし文永二年(1265年)突然温泉の湧出が止まってしまう。その翌年、毎日の飛騨川の河原に舞い降りる一羽の白鷺に村人が気づく。不思議に思った村人がその場へ行ってみると、温泉が湧いていた。空高く舞い上がった白鷺は、中根山の中腹の松に止まり、その松の下には光り輝く一体の薬師如来が鎮座していた・・・。これが下呂に伝わる白鷺伝説であり、温泉寺開創の縁起である。
湯薬師如来尊像 白鷺に化身し、温泉の湧出を知らせたこの薬師如来を本尊とするのが、醫王霊山温泉寺である。下呂富士と呼ばれる中根山の中腹に建ち、創建は寛文十一年(1671年)。

下呂温泉案内碑の鷺

 

⑦ 白鷺温泉の白鷺伝説  愛知県豊田市篭林町塩平(足助)

白鷺温泉の白鷺伝説(足助の里・白鷺館のHPより)
昔、一羽のしらさぎがこの地に舞い降りた・・・。傷を負ったしらさぎは河原に浸かり、しばらくすると元気に飛び立って行った。その姿を見た里人は、不思議に思い、その地に近づいてみると・・・。岩の間からこんこんと泉が湧き出していたそうな・・・。足助の里に伝わる「白鳥伝説」。何年過ぎてもその伝説の湯は今もこの地に伝わる・・

白鷺温泉 白鷺館(白鷺の湯)のHP

 


Ⅱ 日本武尊と白鷺伝説

日本武尊と「白鳥伝説」  日本武尊(やまとたけるのみこと)は、東国征伐の帰路、伊吹山の戦いで病を得て、大和を目前にした三重(伊勢)の能煩野(のぼの)で大和への強い望郷の念を残しながら没しました。尊の霊魂は、大きな白い鳥(八尋白千鳥-やひろしろちどり-)となって墓から飛び立ち、全国各地に飛来したとされます。この「大きな白い鳥」を下掲の白鷺神社では「白鷺」としています。

白鷺神社  栃木県河内郡上三川町しらさぎ
当社は延暦2年(783)の鎮座で主祭神は日本武尊。当社の祭神、日本武尊の神使は上記の白鳥伝説の大白鳥に由来して白鷺(しらさぎ)とされています。神紋も白鷺で、「翔舞殿(しょうぶでん)」前には左右一対の白鷺の石像が奉納されています。また手水舎の吐水口も白鷺。

「平和の剣」を納めた「翔舞殿」

「翔舞殿」前の左右一対の白鷺像   平成18年(2006)3月奉納

翔舞殿 鎮座1220年の記念事業として、日本武尊の「草薙の剣」の霊力にあやかって、世界平和・国家繁栄・人々の幸福を祈念して、「平和の剣」を「翔舞殿」に納めた(平成17年)。「平和の剣」は鎮座年数に因んだ長さ1220cmの青銅製で、日本一の大きさ。「翔舞殿」は白鷺が羽を広げて「平和の剣」を抱え護る姿で、地球をイメージしたもの。また、「翔舞殿」の中央には日本武尊の等身大の像がある。

「平和の剣」を納めた「翔舞殿」の内部・・・日本一大きい剣の柄には鷺の紋、中央に日本武尊像

手水舎の白鷺の吐水口               翔舞殿中央に立つ日本武尊像

 


Ⅲ 気比神宮と白鷺伝説

気比神宮 福井県敦賀市曙町

敦賀市の気比神宮は越前国一之宮、北陸道総鎮守。祭神は伊奢沙別神・仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・應神天皇・玉妃命・武内宿禰命の7柱。
気比神宮の神使は白鷺とされますが、境内では、神使の白鷺に関する案内や像、図などは見当たりません。しかし「気比の松原の案内碑」や「太平記第39巻」に気比神宮の神使の「白鷺伝説」が記されています。

1 異敵を撃退した気比の白鷺・・・気比の松原の案内碑

(気比の松原は、もとは気比神宮の神苑でした)

「ここ気比の松原は三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つに数えられている。その昔聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した そのとき敦賀の地は突如震動し一夜して数千の緑松が浜辺に出現した そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群舞しあたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた 敵はそれを数万の軍勢とみておそれをなしたちまちのうちに逃げ去ったという この伝説に因んで、「一夜の松原」とも称せられる」

2 蒙古打倒に博多湾に馳せ参じた「気比の宮の仕者、白鷺」・・太平記第39巻

太平記に載る気比神宮の神使、白鷺
太平記第39巻に、「自太元攻日本事(たいげんよりにつぽんをせむること)」(蒙古襲来)の項があります。この中に、国難に際して、日本中のありとあらゆる神霊と共に祭神の仕者(神使)もまた蒙古軍打倒に西(博多湾方面)へ馳せ参じたことが書かれ、特に、①春日野の神鹿(しんろく)・②熊野山の霊烏(れいう)・③気比(けひ)の宮の白鷺(しらさぎ)・④稲荷山の名婦(みやうぶ)・⑤比叡山の猿、と神使(仕者)の名前が挙げられています。気比神宮の「白鷺伝説」の一端が記されています。

注:「太平記」とは、鎌倉末期から南北朝中期までの約50年間の争乱を和漢混交文で描いた、「平家物語」と並ぶ日本の代表的な軍記物。全40巻。作者は小島法師と伝えられるが不詳。成立は応安年間(1368~1375)とされる。内容は、正確な史書としての軍記物というより、中世の武士の教養書としての読み物(往来もの)のように書かれたとする説も多い。