前足の片方を挙げて、手招きしているように見える招き猫(土人形)は、 江戸末期に出現したとされています。招き猫は、一般的に右手を挙げているものは金(財福)を、 左手を挙げているものは客を呼び込むとされ、家の玄関や商店の店頭に飾って、 開運招福、千客万来、商売繁盛をもたらす縁起物とされています。古くは養蚕守護の鼠除けの猫とされ、昨今は縁結びの猫ともされています。
「招き猫発祥の社」とされる社は、猫との由縁があって招き猫の像(土人形)が伝わる社で、全国に数社あります。私が参拝した社の招き猫をまとめてみました。現在の招き猫は自社に参拝者を呼び込む大役も担わされています。
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大渓山豪徳寺 東京都世田谷区豪徳寺2-24-7
貧乏寺に吉運を招いた猫 豪徳寺は「招き猫」の寺としても有名です。昔、この寺の猫が、彦根藩二代目藩主井伊直孝を手招きして寺内に招き入れたことがきっかけで、寺は井伊家の菩提所になり寄進も得て栄える、という吉運をもたらしました。(詳細は下掲の由来参照)
この社の招き猫は「招福猫児(まねきねこ)」と称され、祈ると、吉運に恵まれ、家内安全、商売繁昌、心願成就の霊験があるとされます。境内の招福観音堂に招福観音を祀ります。
招福観音堂と御札 招福猫児(まねきねこ)の由来詳細 クリック拡大
ご当地キャラクターの元祖「ひこにゃん」のモデルは豪徳寺の猫
この猫のモデルは、「彦根藩二代目藩主井伊直孝ゆかりの豪徳寺の招き猫」です。「ひこにゃん」は、彦根の「彦」と猫の鳴き声を合わせたネーミングで、井伊の赤備えの兜(かぶと)をかぶった猫です(右の絵)。2007年に登場しました。
今戸(いまど)神社 東京都台東区今戸1-5-22
後冷泉天皇康平六年(一〇六三年)、京都の石清水八幡を勧請し、今戸八幡を創建。昭和十二年七月に、白山神社を合祀、今戸神社と改称。御祭神は應神天皇、伊弉諾尊、伊弉冉尊、福禄寿。
今戸焼猫の由来 江戸末期、老婆が、貧しさのあまり愛猫を手放なければならくなったが、この猫が夢枕にあらわれて「自分の姿を人形にしたら必ずや福徳を授かる」といったのです。そこでその猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草神社の参道で売ったところ、たちまち評判になったといいます。
良縁招き猫 昭和も後半になって、今戸神社では、旧今戸八幡が浅草今戸町(今戸焼の産地)の産土神であったことや上記の伝承(由来)などから、「招き猫の社」を前面に掲げるようになったようです。しかし、現在、神社で授与されている招き猫は、縁結びを強調したオスメス一対となった「良縁招き猫」と呼ばれる現代創作のものがメインで、江戸末期発祥とされる今戸焼製の猫の像容とは異なります。遺跡から出土した招き猫の像容は、横向きで片手を挙げた土人形だとのことです。
本殿には大きな招き猫が置かれ、良縁を求める女性参拝者が奉納した大量の絵馬に圧倒されます。境内には「今戸焼発祥の地」の碑もあり、猫像のコレクションなどもあります。
絵馬掛けの縁結び招き猫
自性院(無量寺) 東京都新宿区西落合1-11-23
自性院(無量寺)の入り口の門柱の上には小判を持った招き猫が置かれ、境内には猫地蔵尊を祀る地蔵堂がありあります。招き猫の発祥の社の一つとされています。地蔵堂には2体の猫地蔵尊が祀られていますが、両方共、猫の顔をしたお地蔵さま(猫面地蔵)で、招き猫の像容ではありません。それぞれに縁起(2つの縁起)がありますが、太田道灌を招き入れて救ったとの縁起から、招き猫発祥の社とされたと思われます。また、現在授与されているような招き猫の姿形が昔から伝承されているわけではありません。
縁起1 太田道灌を救った招き猫 文明九年(1477)の江古田ヶ原の戦で、太田道灌が敗れて道に迷っていると、黒猫が現われて手招きをし、「自性院」に案内してくれたので道灌は命拾いをし、後の戦いで勝利することができたといいます。この黒猫の死後、手厚く祀ったのが「猫地蔵」の楚だとされます。
縁起2 貞女の冥福を祈る猫面地蔵 明和4年(1767)に、豪商の娘が嫁して、貞女の誉れが高かったので、その冥福を祈るために猫面地蔵を奉納したのが楚だとされます。しかし、なぜ「猫面」地蔵だったのでしょうか
猫地蔵尊は秘仏とされていて普段は拝観できません。2月3日の節分会にのみ開帳されますが、猫地蔵堂内は撮影禁止です。
この日、招き猫なども授与されます。(写真右)
檀王法林寺 京都市左京区川端通三条上る法林寺門前町36
黒猫は主夜神尊のお使い
檀王法林寺(だんのうほうりんじ)には、華厳経に説かれる主夜神(しゅやじん)尊が祀られています。主夜神は、「恐怖諸難を取り除き、衆生を救護し、光を以って諸法を照らし、悟りの道を開かせる」神様とのことです。 さらに、主夜は守夜と転じて、夜を守る神として崇められ、盗難や火災などを防いでくれる神とされ、そのお使いは古くから黒猫とされてきたとのことです。夜を守る神と、闇夜に眼を光らせる黒猫とが関連付けられてのことと思われます。(参照:檀王法林寺のHP)
脇祭壇の主夜神尊の招き猫(撮影の許可を頂きました)
猫の像容は、右手を挙げた全身黒色の招福猫で主夜神尊の銘が刻まれています。江戸の中頃から頒布されてきたと伝わり、寺社関連の招き猫としては最古のものとする説があります。
伏見稲荷大社 京都市伏見区深草薮之内町68番地
全国に3万社あるとされる稲荷社の総本宮。稲荷大神が稲荷山に鎮座されたのは、奈良時代の和銅4年(711)2月初午の日。
伏見稲荷大社の土人形、招き猫 当初の招き猫は素焼の土人形でした。起源は定かではありませんが、土人形の発祥地は京都の伏見稲荷大社(稲荷山)とされます。五穀豊穣のご利益があるとされる稲荷山の土をこねて素焼した、様々な土人形(伏見人形)が参拝者の土産物(みやげ)とされました。招き猫は、これらの土人形の一つとして、江戸時代末期に出現して人気を博し、土産物として全国各地に広まったとされます。このことから招き猫発祥の社ともされます。
伏見稲荷大社と御絵札
招き猫は養蚕守護の猫
招き猫は、蚕を食い荒らす鼠の天敵、養蚕守護の猫として求められました。
伏見稲荷の建立者である渡来系豪族、秦氏は、養蚕・機織・染色の技術に優れていて、蚕養神社(京都・木島神社内)を造るなど養蚕の普及と養蚕守護に力を注ぎました。また、一般に稲荷神の中には蚕神とされる祭神(宇賀神や保食神など)もあります。これらのことも念頭に、伏見稲荷の招き猫は、養蚕守護、鼠封じにご利益のある猫として、格好の参詣みやげとされ全国各地に持ち帰られたものと思われます。養蚕の衰退と共に「招福の縁起物」の面が強調されるようになりました。
土産物(神具)売り場の招き猫とだるま(伏見稲荷大社境内)
だるまも養蚕の縁起物 境内の土産物(神具)売り場には、「招き猫」だけでなく「だるま」も並んでいます。このだるまも養蚕の縁起物として、みやげに求められたものです。
蚕は、脱皮の前には桑を食べなくなり「眠」とよばれる静止状態になり、「起きる」(脱皮する)と桑を食べて成長します。脱皮を4回繰り返して(4眠4起して)5齢になると繭(まゆ)を作ります。養蚕農家は、達磨の七転び八起きにあやかり、蚕の起き(4度の脱皮)がよくなるようにと、だるまを縁起物として求めました。
少林山達磨寺は縁起だるま発祥の寺とされます。高崎のだるまは、江戸時代中期に、9代目の住職が、少林山を開山した心越禅師の一筆達磨を原像として達磨の木型を彫って、紙張り子を農家に教え、農閑期の副業にだるま作りを奨励したのが始まりとされます。少林山達磨寺では正月6日・7日に名物・七草大祭だるま市が開かれます。張り子(はりこ)の縁起「だるま」と共に、張り子の「招き猫」も店頭に並べられます。養蚕の盛んだった上州では、当初は、「だるま」と「招き猫」は共に養蚕の縁起物として造られ、だるまは七転八起に因んで蚕の起きがよくなるように、招き猫は鼠の天敵として蚕の鼠害の防御と豊蚕を願ったものでした。同様に、関東各地のいずれのだるま市でも、養蚕の縁起物として、「だるま」と「招き猫」が販売されたとのことです。
回廊にだるまが積まれる本堂(左)と達磨堂内(右)
一筆達磨札 張り子の縁起達磨 張り子の招き猫
石造の猫はあまり見かけません。招き猫だけではなく供養の猫なども掲載しました。
蕎麦屋(東京・板橋区赤塚5) 路傍民家(茨城・筑西市新花町乙付近)
常保禅寺(東京・青梅市滝ノ上町) 煙草屋(千葉・市川市南八幡5-10)
自性院無量寺(東京・ 新宿区 西落合) 阿豆佐味天神・蚕影神社(東京・立川市砂川町)
回向院(東京・墨田区両国)
五百羅漢寺(東京・目黒区下目黒) 観泉寺(東京・杉並区今川)
東京メトロ有楽町線「辰巳駅」駅前広場(東京・江東区辰巳1)