女化(おなばけ)稲荷には、 狐の報恩伝説、または、狐と人間の婚姻伝説があり、 「女化物語」とも呼ばれているようです。 これとほとんど同じ筋書きの伝説に、陰陽師、安倍晴明の誕生に拘わる「葛の葉伝説」(別項参照)があります。

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女化(おなばけ)神社(別名女化稲荷神社) 茨城県龍ヶ崎市馴馬町5387

この社は、永正六年(1509年)の創建とされ、保食神を祀り、農業神として五穀豊穣や家内安全が祈願されます。この社の社名や地名が「女化(おなばけ)」とされた縁起(由来)が、「女化物語」として広く知られています。本殿前には、稲荷神のお使いというよりは、「女化物語」に因んで3匹の子狐を連れた、キツネ像が奉納されています。

 

 

女化(おなばけ)物語 概要

 詳細は下掲の「女化稲荷縁起」(境内の案内板)をご覧下さい。
一命を救われた白狐が、人間の娘に化して命の恩人(忠五郎)のもとを訪れ、やがて夫婦となり三人の子をもうけて平穏な暮らしを送っていた。ところが、数年経ったある日、うたた寝をしていて、尻尾が出ているところを遊びから帰った子供に見られ、母親の正体が狐であることが露見してしまった。狐(母親)は、正体がわかった以上は子供と別れざるを得ないと、泣く泣く「別れの一首」を残して家を出て、古巣に帰ってしまった。忠五郎は悲しみ嘆いて、三児を連れて其のあとを追ったが、二度と姿を見ることは出来なかった。「別れの一首」 みどり子の母はと問わば をなばけ(女化)の原に泣く泣くふすと答えよ

本殿前 

「女化物語」に因んで3匹の子を連れたキツネ像

明治2年(1869)9月建立
 奉納 東京深川の大黒屋藤助、岡田屋宗兵衛

 

 

 

奥の院(お穴)

通称「お穴さま」と呼ばれている。
「女化物語」で子を残して帰ってきた母親(狐)が姿を隠したとされる場所

 

境内のキツネ

        向拝正面                                     灯篭の台石側面

 

 

 

 

奉納額絵

 

 

 

 


女化稲荷縁起 二題

女化(おなばけ)稲荷には二つの縁起があるようです。

① 女化稲荷縁起(境内の案内板)

時は永正の六年(1509)、常陸の国根本村に忠五郎とて律儀なる者あり。常々農を励むいとまに筵(むしろ)を織りて商うを事とせり。或る日土浦にて筵をあきない帰るさ、黄昏に高見が原を通りしに折りしも一人の猟師寝伏したる白狐を射んとする態を見て、一時に哀れと思い一咳しければ、狐は驚き覚めて草むらに逃れ去りぬ。猟師いたく憤り咎めしかば、忠五郎は筵の価をば差し出し、只管(ひたすら)に其の罪を謝して、初更の頃我が家に立戻りぬ。

柴の折戸を開かんとするに側に老若男女二人佇(たたず)み居たり。「何人ぞ」と問い尋ぬるに、「吾等は奥州の者にて鎌倉に参る旅路。今しこの家に泊まりを乞いしも、主人留守なりと、老母の断りなるに所置なく茲(ここ)にあり」と答う。忠五郎性来慈悲の心深く、此の様を見ていとど憐れみ一夜の宿を宥(ゆる)しき。かくて夜の明くれば女のみ臥し居るにぞ、いぶかしく思い聞き糺(ただ)しぬ。女の涙ながらに答うらく、「吾は奥州信夫の郷の者にて幼年の頃に父母を失い譜代の僕(しもべ)の養育を受け今年21歳なり。家貧しく一族を頼まんため鎌倉に赴く途次、この始末なり」と。其の後、彼の老僕いかに尋ぬれども遂に行方知れずなりぬ。

女は、日毎まめまめしく耕作など手伝いをなして日を送るほどに、いつか早三月程も経ければ、里人等これを見知り、心貌共にいとうるわしとて、老母にも勧めて忠五郎が妻とぞなしける。貞実にて業にいそしみ大いに産を興し、家運とみに揚がり、琴瑟(きんしつ=夫婦仲が非常によいたとえ)八年の間に一女二男をあげぬ。これ時永正十四丁丑年仲秋の一日、末の子の添乳のおり倶に睡眠を催しが、秋風身にしむるに覚め、垣間に乱れ咲く白菊を茫然と眺め居たるに、遊び帰りし長子この姿を見て狐なるに驚き、泣き叫べば其の正体を見られしを恥じて一首の歌を書き残し去り失せたり。

  「みどり子の母はと問わば をなばけ(女化)の原になく泣くふすと答えよ」

  忠五郎はいたく悲しみ嘆き、三児を擁して其のあとを追えども、遂に再び見るを得ざりき。

                                       参考 別項 陰陽師、安倍晴明の「葛の葉伝説」

忠五郎の徳に感じて霊狐の仮に女性と化し、恩に報いたる?--(判読出来ず)-   -と伝えてより、人呼んで女化原といい、女化稲荷と称するにいたれり。

② 女化稲荷縁起 別バージョン(ウィキペディアから)

女化稲荷(おなばけいなり)は、戦国時代の武将・栗林義長の創建といわれます。そして、この社の縁起、「女化物語」は、この栗林義長に拘わる民話だとする、別のバージョンもあるようです。

牛久城主岡見氏の老臣に栗林義長がおり、稲塚に向けて駒を走らせていたが、道中、火縄の匂いが鼻に入ったため、気を引き締め、辺りを見渡すと、猟師が鉄砲を構えていたので、その先を観ると、一匹の狐が腹を痛めて前足でさすっていた。あまりの痛さに火縄の匂いにも気づいていない様子であった。義長は飯名権現を詣(もう)でたばかり、それも飯名権現の使い姫はキツネであり、飯綱使いの巫女はキツネを用いて人の吉凶を占う。義長は飯綱使いに頼んで妻の交霊をしてもらった恩もあったので、小石を猟師に向かって投げつけ、弾は狙いを外した。それに気づいた狐は察して逃げた。社前に戻ると亡き妻に似た女がおり、義長はその女を娶るが、女との間に生まれた子が6歳の頃、妻の正体が狐とわかり、行方知れずとなった。翌日、縁先に「みどり児の母はと問わば、女化(おなば)けの原に泣く伏すと答えよ」と書かれた一枚の紙が置かれていた。以来、この原を「女化原」といい、いつからか稲荷の祠が建てられた。(ウィキペディア「女化神社」より)

                        参考 神使の館 飯綱権現の狐
                 絵 宮川秀男   「東林寺に眠る栗林義長」(牛久市立図書館刊)より