養蚕の記憶

  はじめに   神使像めぐりで神社仏閣を訪ねていると、 境内などで、かつて、養蚕が≪農家の人々の生活そのものだった≫ことを 物語るようなさまざまな痕跡(遺跡)に出合います。 日本の養蚕は、稲作の伝来とともに始まったとされますが、特に江戸末期から昭和初期にかけて盛んでした。国の殖産興業策にそった近代的器械製糸や養蚕技術の開発などに伴い、生糸の輸出が世界一となった最盛時には農家の40%が養蚕を行っていました。しかし、今日では養蚕農家はなくなり、桑畑も無くなってしまいました。 この稿は、「養蚕について語る」という大それたものではなく、神使像めぐりのなかで出合った「養蚕の記憶が残る断片的な痕跡など」を駄菓子屋の店頭のように雑多に並べたものです。(私のwebや本に別個の項目としてこれまでに載せた記事から、「蚕、養蚕」をテーマにピックアップして再録したものも多々あります)

下記の3稿に分けて順次アップします。

  • 養蚕の神々(金色姫伝説):  ➀蚕神(蚕の起源神)  ②養蚕神(養蚕・機織を伝播した神)  ③ 蚕神・猫神・蛇神の石像

  • 養蚕守護 (ネズミ除け):  ①ネズミ除け–ネコ・ヘビ・ムカデ ②蚕の起きをよくするダルマ ③桑の無事祈願 ④養蚕守護札

  • 養蚕の回顧(赤とんぼ):  ①赤とんぼ-桑畑 ②錦絵で見る江戸時代の養蚕 ③養蚕秘録 ④蚕の墓 ⑤蚕と桑の耕作の吉凶札 ⑥富岡製糸工場 ⑦ああ野麦峠 ⑧繭玉飾り ⑨世界遺産 ⑩付録 蚕の一生 蚕から織物までの工程

                 文中のいずれの写真もクリックすると拡大してご覧になれます

 

 

養蚕の神々(金色姫伝説)

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かつて、群馬・茨木県をはじめ全国の農家で養蚕が行われ、蚕を「おかいこさま」「おこさま」とよんで労を惜しまず大切に育てていました。しかし、蚕は病気に弱く、餌の桑が雹害、霜害を受けてダメになり蚕を飼育できなくなるなどその時々の自然・気象災害、さらには蚕を鼠に食べられる鼠害などで、繭の収量はその年々で大きく当たりはずれがありました。農家にとって養蚕収入の高低は生活そのものにかかわる死活問題でした。人為を超えた養蚕の不安から、人びとはただひたすら、養蚕の神々に養蚕の無事と豊蚕を祈らざるを得ませんでした。たくさんの神々が各地におられます。

養蚕の神々

1 蚕神 : 蚕の起源神(蚕を生じた神)

2 養蚕神・機織神 : 養蚕・機織りを伝播した神

3 養蚕神石像 : 蚕神・猫神・蛇神

 

 1 蚕神

蚕神は蚕を生じたり蚕になった神で、➀記紀の「保食神・大宣都比売命・稚産霊命」 ②金色姫 ③オシラサマがあります

 

  1-➀ 古事記日本書紀の蚕神         

7世紀に編纂された「古事記」や「日本書紀」の神話に、神の体から蚕が生じたと「蚕の起源」についての記述があります。日本での養蚕は、記紀の編纂された7世紀よりはるかに以前、稲作の伝来の頃から、行われていましたが、記紀に書かれた「蚕の起源神」の項は、養蚕が既に当時の日本にとって重要な産業になっていたことを物語っています。記紀に載る「蚕の起源神」、 a 保食命、b 大宜都比売命、c 稚産霊命は、五穀や牛馬の起源神ともされ、養蚕神として祀られるだけでなく、食物神、農業神として、広く稲荷神社などの祭神ともされています。

 

1-➀ a 保食命(ウケモチノミコト)-日本書紀

日本書紀によると、葦原中国(アシハラノナカツコク)のウケモチノミコト(保食命)の所に、天照大神1-101に命じられて、ツクヨミノミコト(月夜見命、月読命)が高天原から訪ねてきた。食物を司る神であるウケモチは、最高のもてなしをしようと、陸に向いて米飯を、海に向いて大小の魚を、山に向いて種々の獣を、口から吐き出して、それらのご馳走をたくさんの机の上に盛り上げた。これを見ていたツクヨミは「口から吐き出した穢いものを私に食べさせる気か」と、色をなして怒り、剣を抜いてウケモチをその場で斬り殺してしまった。その後、天照大神が、天熊人(アマノクマヒト)を遣わすと、殺されたウケモチの頭に牛馬が生まれ、額に粟、眉の上に蚕、目の中に稗、腹の中に稲、陰部に麦、大豆・小豆が生じていた。アマノクマヒトはこれらを全て持ち帰ってアマテラスに献上した。・・・持ち帰った蚕を(アマテラスが)口内に含んで糸を抽き出した。これが養蚕の始まりである。

右図 この話は、「養蚕秘録」にも「日本の養蚕の始まりの事」と題して載ります。「養蚕秘録」は兵庫県養父郡の上垣守国(うえがきもりくに)が享和2年(1802)に著した養蚕全般に亘る教書(全3巻)。  右図は「国会図書館デジタル」より

                                クリック→拡大

1-➀ b 大宣都比売命(オオゲツヒメノミコト) 古事記

古事記によると、高天原から追放されたスサノオ(須佐之男命)がやってきて、食物神のオオゲツヒメ(大気都比売命)に食物を乞うた。すると、オオゲツヒメは、鼻、口、尻から種々の食べものを取り出して調理して饗した。しかし、この様子を覗き見たスサノオは「鼻、口、尻から出した、穢れた汚い食物を食べさせようとした」としてオオゲツヒメを殺してしまった。すると、オオゲツヒメの死体の頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生じた。カミムスビノミコト(神産巣日命)はこれらをとらせて種とした。

1-➀ c 稚産霊命・和久産巣日命(ワクムスビノミコト)  日本書紀

日本書紀に、「ワクムスビノミコト(稚産霊命)は、土の神ハニヤマヒメ(埴山媛)と火の神カグツチ(軻遇突智)の間に生まれた神だが、出産の際にワクムスビの頭の上に蚕と桑が、臍(へそ)の中に五穀が生じたと、記載されている。

 

1-② 金色姫の伝説

 

蚕影(こかげ)神社  茨城県つくば市神郡1998番地

茨城県つくば市にある蚕影(こかげ)神社は、全国の養蚕守護・蚕影信仰の総本山です。創建は第13代成務天皇の御代(西暦140年代)とされ、三柱の祭神のうち、特に稚産霊神(わかむすびのかみ)は、頭に蚕と桑が臍(ヘソ)に五穀が生じたと日本書記に載る農蚕神です。また、この社の縁起に、インドから伝来した「金色姫伝説(後述)」があり、金色姫が蚕に化し、筑波山の神が繭から糸を紡ぐことを教えてくださったとされます。さらに、角谷姫の機織り伝説や馬娘婚姻譚(おしらさま伝説)もあります。まさに、この社は、日本の養蚕の起源であり、養蚕神信仰の中心的な拠り所だったと言えます。

養蚕秘録などの金色姫伝説

(あらすじ) 参照:養蚕秘録(国会図書館デジタル)

印度(天竺)にリンイ(霖夷)大王という王がいて、后(きさき)との間に「金色姫」という名の娘が養蚕秘録 金色姫いたが、その后が亡くなり、後添えの后をもらった。後添えの后(継母)は、金色姫を憎み疎んじて四度も秘かに殺そうとした.

一度目(獅子):獅子など獣がいる師子吼山に捨てさせたが、獅子は金色姫を背に乗せて宮殿に送り届けた。

二度目(鷹) :鷹など猛禽類がいる鷹群山に捨てさせたが、鷹狩にきた王の家臣が見つけ、姫をひそかに宮殿に連れ帰った。

三度目(舟) :海眼山という孤島に流させたが、漁師が助けて舟で姫を都へ送り返した。

 四度目(庭) :宮殿の庭に深く穴を掘って埋め殺そうとしたが、後に、地中から光が差しているのをいぶかしく思った王が、掘らせて金色姫を発見、無事救い出した。

後添えの后(後妻)の悪意を知った王は、姫の身を案じて、桑の木で造った靭(うつぼ)舟に姫を乗せて大海に流した。

この舟は日本の常陸国の豊浦の湊(現在の茨城県日立市川尻町)に流れ着き、浦人に助けられた。浦人は、助けた姫を掌中の玉と愛したが、程なく、姫は亡くなってしまい、その霊魂は蚕になったという。(=蚕の起源)

 この伝説の最後の部分(日本の豊浦に漂着以後)は、蚕影神社の案内板の「蚕影山縁起」(略記)に以下のように、書かれています。

  蚕影山縁起(略記)の金色姫伝説

天国仲国の姫君は四度の受難の後、滄波万里をしのぎこの地に着き、権太夫夫妻に掌中の玉と愛された。しかし、病に罹り終に露と消えた。ある夜夫妻の夢に「我に食を与えよ、必ず恩返しする」と告げ、夫婦が夜明け亡がらを納めた唐櫃(からびつ)をあければ、中は小蟲ばかりで、桑の葉を与えると獅子、鷹、船、庭と四度の休眠を経て繭となった。筑波山の神が影道仙人として現れ、繭を練り綿にして糸を取る事を教えられた、これ日本の養1-202蚕の始めである・・

右図)蚕影神社絵馬堂の奉納額絵(部分)唐櫃を開けて蚕を発見する図

注:「蚕の起き」  蚕は、脱皮を4回繰り返して(4眠4起して)5齢になると繭を作ります。脱皮の前には桑を食べなくなり「眠」とよばれる静止状態になり、「起きる」(脱皮する)と桑を食べて成長します。養蚕秘録に、『「蚕の4度の起き」を、一度目を「獅子」、二度目を「鷹」、三度目を「舟」、四度目を「庭」というが、これは、印度の金色姫の4度に亘る受難に因んだものである』 とあります。

 

蚕影山祠堂(こかげさんしどう)神奈川県川崎市多摩区枡形7-1-1川崎市立日本民家園内

養蚕信仰を今に伝えるお堂–金色姫伝説の彫刻

この建物は川崎市麻生区の東光院境内にあったもので、養蚕(ようさん)の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(ぐうでん)と、その覆堂(さやどう)から成っています。宮殿の棟札によ1-203ると文久三年(1863)築

(以下、蚕影山祠堂前の説明版より) 中でも注目に値するのは、金色姫(こんじきひめ)伝説を表現した側面の彫刻です。金色姫は天竺(てんじく、現在のインド)に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたといいます。この 彫刻は養蚕の起源を説くもので、四度の大苦難は蚕の四回の休眠(食事をせず動かなくなる脱皮前の時期)を象徴しています。

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金色姫苦難の4場面  案内には、内部の宮殿の両側面に養蚕の神様である金色姫の苦難の物語、➀獅子・②鷹・③舟・④庭の4場面が彫刻されているとありましたが、➀獅子と③舟の2場面しか撮れませんでしたので、案内板の説明図版の4場面も添付しました。金色姫伝説については上掲の稿をご参照ください。

彫刻と図(右掲) 上段➀獅子、中段③舟、1-205下段②鷹・④庭(図のみ)

        クリック→拡大1-206

 

 

 

 

 

総社神社 蠶影大神碑 群馬県前橋市元総社町1-31-45

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総社神社の本殿の背後に「蠶影大神」と刻まれた大きな蚕神碑があります。「蚕影さま」の石碑で、養蚕守護や豊蚕を願ったもので、上州の蚕影信仰の一端を示しています。金色姫伝説や欽明天皇皇女各谷姫伝説などを縁起として、広く養蚕守護の神社として信仰されていた蚕影神社(蚕影山-茨城県つくば市)を本山とするものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

  1-③ おしらさま

オシラサマは、特に東北地方や茨城・群馬の養蚕農家で信仰されている「家の神」で、養蚕守護、五穀豊穣(農業)、厄除け、病気治癒など家内安全にご利益があるとされます。オシラサマ伝説は中国から伝来し、日本の東北地方で土着伝説にアレンジされた、蚕・養蚕の起源を語る伝説です。オシラサマの姿は、桑の木で作った頭部(馬と娘の顔)に色とりどりの紙や布の装束をつけた、馬・娘の2体一対の人形で、特に養蚕神として信仰されています。(下記写真参照)

伝承園・御蚕神堂(おしら堂)展示のオシラサマ 岩手県遠野市土淵町土淵6-5-1

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オシラサマ伝説 中国の東晋時代(317~420年)に記された「捜神記(そうじんき)」巻14に、日本の東北地方のオシラサマ伝説と同様の「馬と娘と父と蚕の伝説」が、すでに、載っています。これが日本に伝わって東北地方土着の筋書きの伝説とされたものでしょう。そして、大筋は変わりませんが、オシラサマの伝説は東北地方各地でさまざまにアレンジされて伝承されています。

遠野物語のオシラサマ伝説

オシラサマ信仰について、民俗学者の柳田国男が「遠野物語」に載せています。柳田國男の説話集「遠野物語 」(明治43年-1910-刊)の第69話に「オシラサマの誕生」が、「遠野物語拾遺」(第77段)にその後日譚として「蚕・養蚕の起源」が載っています。なお、一般には、上記の両稿を通した一つの伝説として語られ、オシラサマは蚕・養蚕の起源神ともされ、養蚕神として信仰されています。

以下は、遠野物語のオシラサマ伝説の概要(あらすじ)です。

「遠野物語」(69話) オシラサマの誕生―馬娘婚姻譚(ばじょうこんいんたん)

1-302 昔、ある百姓が娘と二人で住んでいたが、娘は飼い馬を愛して夜毎に厩舎に行って寝ていたがついには馬と夫婦になってしまった。これに怒った父親は馬を庭の桑の木に吊るして殺してしまった。その夜このこと知った娘は死んだ馬の首にすがって泣き悲しんだ。この様を見た父はさらに怒って後ろから馬の首を斧で切り落とした。すると、娘は馬の首に乗ったまま天に昇り去ってしまった。オシラサマというのはこのとき生じた神で、馬を吊り下げた桑の枝でその神の像を作る。

         右:(参考)原文 クリック→拡大

 

「遠野物語拾遺」(第77段) 養蚕神

「遠野物語拾遺」(第77段)に、「遠野物語」(69話)のオシラサマの後日譚として、下記2項が「蚕の起原神」として載っています。

(a) 父親に愛する馬を殺された娘は、その馬の皮で小舟を造り、桑の木の櫂(かい)で海に出たが、悲しみのあまり死んで、ある海岸に漂着した。その皮舟と娘の亡骸から湧き出した虫が蚕である。 (–金色姫物語を1-303連想させる)

(b) 父親に愛する馬を殺された娘は、「自分は家を出ていくが、残った父が困らないようにしてある。春三月の十六日の夜明けに庭の臼の中を見てください。」と言って、娘は死んだ馬と共に天に飛び去った。言われた日の朝、父が臼の中を見ると、馬の頭をした白い虫がわいていた。それ(蚕)を桑の葉で育てた。 (–養蚕の始まり)

左:伝承園・御蚕神堂(おしら堂)のオシラサマ

 

 

 

参考 中国の「捜神記」のあらすじ  「捜神記(そうじんき)」巻14(東晋時代:317~420年)に載る話は、日本の「おしらさま伝説」の元となったとされます 。

父親が旅に出て戻ってこないのを心配した娘が馬に冗談で「お前が父を連れて帰ったらお前の嫁になる」と言った。すると馬は家を飛び出していったがやがて父親を連れて帰った。娘を見る馬の様子がおかしいのに気付いた父親が、娘から馬との約束を聴いて、怒ってその場で馬を殺し、皮を剥いで庭に干しておいた。庭に出た娘は「畜生の分際で私を嫁にしようなんてとんでもない」と馬の皮を蹴った。すると、不意に馬の皮は娘を包み込んで飛び去り姿が見えなくなった。数日後、父親は、娘と馬の皮が蚕と化して庭の桑の木の上で糸を吐いているのを発見した。その繭からは通常の繭の数倍も糸がとれたという。

 

2 養蚕神・機織神

養蚕や織物の技を伝播した神仏で、➀古事記日本書紀の機織姫(a~e) ②馬鳴菩薩 ③絹笠・衣笠さま ④白瀧姫 ⑤小手姫 ⑥おきぬさま が知られていて養蚕神・機織神としてまつられています。

 

2-➀ 記紀の機織(はたおり)姫たち

古事記や日本書紀などの神話に登場する「機織姫(神)」は、養蚕・機織りの神として各地の神社に祭神として祀られています。また、縦糸と横糸を織って成る織物をつくる神であることから、縁結びの神などともされています。清浄な機屋(はたや)で神衣をつくる「機織女(はたおりめ)」(機織の神)は、美しく穢れのない、ごく限られた特別な乙女で、巫女のような神秘的な存在だったのでは。(これらの記紀などの機織り神については、相互に、同神とされたり、別名とされていて不明確で特定できない部分も多い。)

小剣神社  埼玉県東松山市早俣423―1

「幟織姫大神」 とあります。右手に糸巻を持つ織姫の像ですが、のぼり旗を織る姫?幟織で「はたおり」と読ませるのでは? 養蚕・機織りの無事を祈って奉納された像です。 —安政五戊午年六月吉日(1858年)奉納

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2-➀ a 稚日女尊(わかひるめのみこと)・天服織女(あまのふくおりおんな)

日本書紀の稚日女尊(わかひるめのみこと)は、古事記の天服織女(あまのふくおりおんな)に相当する。ワカヒルメは機織(はたおり)の神で、高天原の清浄な機織場(斎服殿)で神衣を織っていたとき、素戔嗚(スサノオ)命が部屋に逆剥ぎの馬の皮を投げ込んだので、驚いて機(はた)から落ち、持っていた梭(ひ)が女陰(ほと)に突き刺さって亡くなった。このとを知って天照大神は天岩戸に隠れてしまった。天照大神の別名は大日女(おおひるめ)尊。稚日女(わかひるめ)は天照大神(大日女)の幼名、別名などとして同一の神とする説もある。

2-➀ b 天羽槌雄命(あめのはづちおのみこと)・天棚機姫神(あめのたなばためのかみ)

この男女の機織り神は、天の岩戸に隠れた、天照大神に織物と神衣を奉納した神。「天羽槌雄命(あめのはづちおのみこと)をして文布(しず)を織らしめ、天棚機姫神(あめのたなばためのかみ)をして神衣(かむそ)を織らしむ」。「文布」とは古代の織物で、「神衣」とは神の衣服。

2-➀ c 萬栲幡千々比賣命(あめよろずたくはたちちひめ)

日本書記では栲幡千々比賣命(あめよろずたくはたちちひめ)だが、古事記では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)など。タクハタチヂヒメは造化三神の一神であるタカミムスヒの娘で、天孫降臨の主役となるニニギノ命の母。この女神は機織りや織物を司(つかさど)る神。穀物・生命の神。

2-➀ d 天八千々姫命 (あめのやちちひめのみこと)

天八千々姫命は、天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)の子神。織機と織子の神。また、七夕の織姫とも云われる。2-➀ cの萬栲幡千々比賣命(あめよろずたくはたちちひめ)と同神とする説もある。

2-➀ e 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)

天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が吾田(アタ)の笠狹之御碕(カササノミサキ)に天降りたとき、波打ち際の大きな機屋の中で、木花開耶姫(このはなさくやひめ)(別名豐吾田津姫-とよあたつひめ)が神衣を織っていた、という。ヒメは、大山祇神の娘で、大変美しく、ニニギのミコトの后となられた。機織り・農業の神とされるほか、家庭円満・安産・子宝・水徳(火難消除・航海・漁業)の神などとされる。

 

 2-② 馬鳴菩薩

馬鳴(めみょう)菩薩は、中国の民間信仰に由来するもので、貧しい人々に衣服を施す菩薩とされます。養蚕守護・機織りの神仏(養蚕神)とされます。馬鳴菩薩の像容は、馬の背に載る六臂(腕)の菩薩が、糸枠(いとわく)、糸、秤、火炎といった、養蚕に関連するものなど(図によって異なる)を手に持った姿で表示されています。また、馬の周りに童子(脇侍)を伴っているもあります。

馬鳴菩薩の図

左:諸尊図像鈔(国立国会図書館蔵)右:渋谷区立松涛美術館展示、1014年11月

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馬鳴菩薩の養蚕守護のお札(かつて頒布されていたもの) 2-202

:高野山不動院 馬鳴菩薩(フランク教授のお札データベース)- 持ち物:桑、繭、秤、糸巻、巾着

右:継鹿尾山寂光院 養蚕守護(愛知県犬山市)- 持ち物:桑、繭

 

 

 

 

 

 

 

2-③ 絹笠(きぬがさ)さま

きぬがささま(絹笠明神)は、群馬県の碓氷峠周辺(例えば、安中市・前橋市など)で、養蚕守護の神として祀られている女神です。近江八幡市の繖(きぬがさ)山桑實寺(くわのみでら)に由来するとのこと(下掲)ですが、必ずしもはっきりしていません。きぬがささまの像容は、「桑の枝」と「蚕の種紙(蚕卵紙)」を持つ女神姿で表現されますが、馬に乗っているものもあります。

蚕卵紙(さんらんし)」「蚕種紙(さんしゅし)」とは、蚕の卵を産み付けた厚紙で、江戸中期にはすでに売買されていたようです。孵(ふ)化すると、蚕は、稲藁を編んだ藁座(わらざ)などに移され、桑の葉で養育されました。

繖山桑實寺 滋賀県近江八幡市安土町桑実寺675

近江八幡市の繖(きぬがさ)山桑實寺(くわのみでら)が日本の養蚕の起源社とされることから「きぬがささま」を養蚕の神と崇めるようになったとされます。全国で養蚕の神とされている絹笠(きぬがさ)さま、衣笠(きぬがさ)さまは、当社に由来するものと言われます。

(以下、「桑實寺の冊子」より) 桑實寺は、天智天王の勅願寺院として、白鳳6年の建立。皇女が疫病に罹った際に天皇が定恵和尚に法会を営せると琵琶湖より生身の薬師如来が現れ、病も治りました。この薬師如来を本尊として定恵和尚により開山された寺です。 桑實寺(くわのみでら)の寺名は、定恵和尚が中国より桑の木を持帰り此地において日本で最初に養蚕技術を広められた為です。山号の繖(きぬがさ)山も、蚕が口から糸をちらしマユを懸けることにちなんだものです。

絹笠大明神 塔 : 日枝神社境内 群馬県前橋市総社町総社2408

境内に奉納された立派な方面塔の正面に絹笠さまが浮き彫りされていて養蚕守護が祈願されています。右手に桑の枝を持ち、左手に蚕の種紙を提げています。蓮台と台石の中台座に「絹笠大明神」と刻まれています2-301

きぬがささまの蚕神搭  市杵嶋(いちきしま)神社 群馬県前橋市川原町-1-406

境内に衣笠(きぬがさ)さまの蚕神塔があります。馬に乗り、左手に桑の枝を持ち、右手に蚕の種紙(蚕卵紙)を持っています。境内には衣笠太神の文字碑(下右の写真)もあり、この地区も養蚕が盛んだったことがしのばれます。2-302

きぬがささまの蚕神碑

左 熊谷稲荷神社内 絹笠大神碑 群馬県前橋市総社町 総社乙1475番   右 市杵嶋神社内 衣笠(きぬがさ)太神碑群馬県前橋市川原町-1-406

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絹笠神社 鷺宮・咲前神社(さきさきじんじゃ)内 群馬県安中市鷺宮3308

咲前(さきさき)神社は江戸時代には養蚕守護の社として信仰を集めました。境内に絹笠神社を祀ります。絹笠神社には、繭や蛇なども奉納されています。絵馬に描かれた絹笠さまは、馬に乗っていますが、前述した日枝神社や市杵嶋神社の「きぬがささま」と同様に、桑の枝と蚕の種紙(蚕卵紙)を持っています。養蚕に因んだ授与品なども多く、養蚕守護(ネズミ除け)のお守りとしてヘビ(長虫さま)や根古(ネコ)石もあり、蚕の起きがよくなるようにとダルマの絵馬もあります。

絹笠神社と絹笠さまの絵馬 2-304

蚕と馬 オシラサマ伝説や馬鳴菩薩、絹笠さまの像など、蚕は馬と縁があるようですが、蚕は、体の背の文様が馬の蹄跡、顔が馬の顔に似ているからともいわれます。なお、蚕は家畜として扱われるため、馬や牛などと同様に、「一頭、二頭・・・」と数えます。

 

 

2-④ 白瀧姫

桐生織りの元祖 桐生(群馬県桐生市川内町地域)に都から連れ帰った姫が、養蚕と織物をの技を伝授したとの伝承

白瀧神社 群馬県桐生市川内町5丁目3288

群馬県の桐生は桐生織りで有名ですが、この地に白瀧姫が都の進んだ養蚕・織物の技法を伝え広めたとする「白瀧姫伝説」があります。白瀧神社発祥の伝説とされ、社は桐生織物発祥の地ともされています。白瀧姫命は、天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)とともに織物の神として祀られています。社の境内に姫が亡くなったとき降ってきたという「降臨石」と呼ばれる大岩があり、昔、耳を当てると、中から機を織る音が聞こえたと伝わります。白瀧神社の養蚕・織物の神、白瀧姫は、文政の頃、養蚕や織物が盛んだった東京・八王子宿の機守(はたがみ)神社(八王子市大谷町・大善寺内)に勧請され、明治28年には日本織物㈱(後の富士紡績)が創建した「織姫神社」(桐生市織姫町)の祭神として勧請されています。

白瀧姫伝説

桓武天皇 (在位 781~806)の時代に、上野国山田郡の仁田山(現在の桐生市川内町)から一人の男が都へ出て宮廷に奉仕しました。やがて、男は、宮中で官女の白瀧姫に出合い、身分の違いを超えて、二人は互いに惹かれ合うようになりました。御前の歌合せの席で、男が見事な和歌を披露しますと、これに感銘した天皇は、男が白瀧姫を郷里(桐生)へ連れ帰るのを許しました。桐生で、白瀧姫は養蚕や機織の優れた技術を広く人々に伝えました。死後、人々は姫を「機神(はたがみ)」として、白瀧神社に祀りました。

白瀧姫伝説は、全国にいろいろなバージョンのがあるようです。『地方の「山田」という地名出身の男が、都で「白瀧姫」に出合い、「和歌」が認められて、「都から姫を郷里(山田)へ連れて帰る」ことが出来た。』という話の筋は同じですが、養蚕・機織りに関わりのある話ではありません。桐生の白瀧姫伝説は、「姫が養蚕・機織を伝えた」とする話が独自に織り込まれているのが特徴です。

八王子に勧請された白瀧姫 機守(ハタガミ)神社-大善寺境内:東京都八王子市大谷町1019-1

2-401 八王子は古くから養蚕や織物が盛んでした。八王子・機守(ハタガミ)神社の機守様は、文政2年(1815)与平という老人が霊夢の中に現れた桐生・仁田山村(白瀧神社)の養蚕織物の祭神、白瀧姫を勧請したもので、以来、八王子の養蚕・織物業に携わる人々の信仰を集めてきました。明治時代になると輸出のため近県の生糸が八王子を通り横浜に運ばれました。

糸枠(糸巻き)を持つ機守様(白瀧姫)

左:八王子織物工業組合HPより 右:機守神社のパンフレットより

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 2-⑤ 小手姫(小手子姫)

飛鳥時代に、現在の福島県伊達郡川俣町・伊達市月舘地域に都人が里人に養蚕と織物の技法を教え伝えたとする伝承

2-501第32代天皇、崇峻天皇(在位 587~592)の妃だった小手子姫(小手姫)は、行方の分からない息子の蜂子皇子を探し求めて現在の福島県伊達郡川俣町・伊達市月舘地域に辿り着きました。この地域が故郷の大和に似ていたことから、この地にとどまり、里人に養蚕と機織りの技法を伝授したとされます。後に年老いて小手姫は息子蜂子皇子に会う事が出来ないことに悲観して大清水の池に身を投げて亡くなりました。里人は、悲しみ、祠を立て、機織御前と崇め祀ったと伝えられます。

この地域には、小手姫を祀る「機織神社」や「小手姫神社」などゆかりの跡地もあり、川俣中央公園には大きな「小手姫像」が丘の上にあります。(写真:小手姫像 川俣町公式HPより引用)

 

 

 

 

2-⑥ おきぬさま (弁財天)

現在の神奈川県相模原市中央区淵野辺地域で養蚕の繁忙期に弁財天が娘に化身して手伝ってくれたとの伝承

皇武神社 神奈川県相模原市中央区淵野辺本町4-20-11

かつて、この相模原地域も養蚕が盛んでした。神社の氏子が養蚕の繁忙期に人手がなくて困っていたところ、神主(かんぬし)の娘がきて手際よく作業を手伝ってくれ、作業が終わると娘は白蛇と化して神社の拝殿の中へ消えていきました。これは神社の白蛇弁財天が神主の娘に姿を変えて手伝いに来てくれたものだ、との伝説になりました。以来、祭神を「蚕の守護神」とし祀り、「おきぬさま人形」を養蚕のお守りとしていただく「おきぬさま信仰」が広がりました。「おきぬさま」はトウモロコシや紙垂(しで)などで神官が手作りした素朴な人形で、参拝者に頒布されたものです。      境内に「蚕守神」の祠や「養蚕やおきぬさま信仰などを現在に伝える主旨を記した碑」があり、拝殿内に「おきぬさま人形」があります。

蚕守神 石碑 おきぬさま人形(拝殿内) 蚕守神大神とおきぬさま信仰の説明碑2-601

 

3 養蚕神の石像

養蚕守護や豊蚕を願って養蚕神の石像も奉納されています。蚕守護神・猫神・蛇神(宇賀神・弁財天)像があります。

養蚕神石像(A) 女神

:「蚕守護神」蛾(成虫)になった蚕の冠を被り右手に繭、左手に桑の枝を持つ(明治40年)。                                     :十二単(じゅうにひとえ)姿で桑の枝を持つ蚕神

岩根神社 埼玉県秩父郡長瀞町井戸 修那羅峠・安宮神社 長野県東筑摩郡坂井村

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養蚕神石像(B) 蚕の天敵の鼠を駆除する猫風蚕神

蚕や繭を食い荒らす鼠の天敵、「猫」も養蚕の守り神とされました。

養蚕大神と猫(養蚕大神祠) 修那羅峠・安宮神社(長野県東筑摩郡坂井村)

すさまじい形相の養蚕大神(左右にネコが控える) 蚕は保食神の眉に生じたとされることから、蚕養大神の眉は蚕か

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修那羅峠・安宮神社 長野県東筑摩郡坂井村     霊諍山(レイショウザン )長野県更埴市八幡-大雲寺の裏山

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養蚕神石像(C) 宇賀神・弁財天

食物・農業・財福の神である宇賀神や弁財天は、稲荷神ともされていますが、両神の神使のヘビが蚕を食い荒らす鼠を退治する(食べる)とされて、養蚕守護神としても信仰されました。また、弁財天は、竜宮の乙姫とされ機織り姫(神)ともされているようです。

村中山観音寺 神奈川県厚木市七沢 (写真の像が養蚕守護を願って奉納されたものか否かは不明)

      「弁天松碑」の前に、左に宇賀神、右に蛇身弁天(享保七年)

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「養蚕の記憶」は、本稿を含めて下記の3部作になっています。他の稿もご覧ください。