国難に馳せ参じた神使-太平記

太平記第39巻に「蒙古襲来の項」があります。 日本の国難に際して、 日本中のすべての神霊と共に 「社々の仕者」も蒙古軍打倒に馳せ参じ、 強烈な台風を起こして蒙古軍を壊滅させた、と書かれています。 「神使」は「社々仕者」と記述されています。 約650年も前の軍記物に、五社の神使」 シカ、カラス、シラサギ、キツネ、サル の名前が列挙されています。後段でその神使を見てみました。

 

太平記に書かれた蒙古襲来と神使

太平記(国民文庫)の巻第三十九に「自太元(たいげんより)攻日本(につぽんをせむる)事(こと)」、すなわち「蒙古襲来」「元寇」の項があります。  『大蒙古國皇帝(クビライ・カアン)の軍が文永二年(1265)八月十三日に日本の博多の津に襲来し、鎌倉幕府(北条時宗)がこれに応じたが、蒙古軍の圧倒的な軍事力の前に武力では抗す術(すべ)も無く、ただひたすら、神仏の加護を祈るしかなかった。これに応じて日本中の天神地祇が西へ馳せ参じると、突然、猛烈な台風が発生して、長門・周防へ向かっていた「異賊七万(しちまん)余艘(よさう)の兵船」は一艘残らず沈んでしまった。』とあります。

武力では蒙古軍に到底及びもつかないので、神頼みのみと、日本中のすべての神祇、霊験(れいけん)の仏閣に勅使(ちよくし)を出して祈祷をさせて、七日の満願の日になった。すると、諏訪大社、宇佐八幡宮、日吉大社、住吉大社、神名帳に載るすべての社はもとより山家村里(さんかそんり)の小社(ほこら)・櫟社(れきしや)・道祖(だうそ)の小神迄(まで)のありとあらゆる神霊が西(博多湾方面)へ馳せ参じ、このほか、「春日野(ひの)の神鹿(しんろく)・熊野山(くまのさん)の霊烏(れいう)・気比(けひの)宮(みや)の白鷺(しらさぎ)・稲荷山の名婦(みやうぶ)・比叡山(ひえいさん)の猿、社々の仕者(ししや)、悉(ことごとく)虚空を西(博多湾方面)へ飛(とび)去る」のが人々の夢に見えた、とのことです。

突然発生した台風で異賊(蒙古軍)は全滅するのですが、この台風について文中に、「日本(につぽん)一州の天神地祇三千七百(さんぜんしちひやく)余社(よしや)来て、此(この)悪風を起し逆浪(げきらう)を漲(みなぎら)しむ。」とあり、そして、この「蒙古襲来」の項の最後に「抑太元三百万騎の蒙古(もうこ)共(ども)一時に亡(ほろび)し事、全(まつたく)吾国の武勇(ぶよう)に非(あら)ず。只(ただ)三千七百五十(さんぜんしちひやくごじふ)余社(よしや)の大小(だいせう)神祇、宗廟(そうべう)の冥助(みやうじよ)に依るに非(あら)ずや」、とあります。
後に、この台風は「神風」と呼ばれました。

 

参考

原文太平記(国民文庫)第39巻「自太元(たいげんより)攻日本(につぽんをせむる)事(こと)」(部分)       日本一州の天神地祇三千七百余社が異賊征伐に西(博多湾方面)へ馳せ参ずる様子が、流麗な和漢混交文で、ありありと目に浮かぶように書かれています。           (左は読み下し、右は原文)     クリック→拡大

0-1  太平記-読下し0-2  太平記 原文:「太平記」とは、鎌倉末期から南北朝中期までの約50年間の争乱を和漢混交文で描いた、「平家物語」と並ぶ日本の代表的な軍記物である。全40巻。作者は小島法師と伝えられるが不詳。成立は応安年間(1368~1375)とされる。内容は、正確な史書としての軍記物というより、中世の武士の教養書としての読み物(往来もの)のように書かれたとする説も多い。

 

太平記に書かれた神使 シカ、カラス、シラサギ、キツネ、サル

太平記の中で、蒙古軍打倒に西(博多湾方面)へ馳せ参じた「社々の仕者」(神使)として、①春日野の神鹿(しんろく)・②熊野山の霊烏(れいう)・③気比の宮の白鷺(しらさぎ)・④稲荷山の名婦(みやうぶ)・⑤比叡山の猿が具体的に挙げられています。

 

① 春日野の神鹿(しんろく)

奈良の春日大社(武甕槌大神)の神使は、祭神が勧請されたとき、常陸(茨城県)の鹿島神宮から連れてきた鹿です。写真:左は奈良公園(鹿園)の鹿、右は春日大社の手水場の鹿

1 春日大社の鹿r02#r02r02

 

② 熊野山の霊烏(れいう)

和歌山県の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の神使は、神武天皇に天照大神から遣わされたとされる八咫烏です。                                         写真:上段は三本足の烏の神紋、下段は熊野牛王宝印

  熊野本宮大社          熊野速玉大社             熊野那智大社

2  熊野三社-神紋と牛王r02#

 

③ 気比(けひ)の宮の白鷺(しらさぎ)

敦賀の気比神宮の神使は白鷺とされます。神使としての白鷺の像などは境内にはないようですが、もとは気比神宮の神苑だった「気比の松原」に下記のような伝承があります。

「気比の松原」の碑(右写真)より名勝 気比の松原

「ここ気比の松原は三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つに数えられている。 その昔聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した そのとき敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の緑松が浜辺に出現した そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群舞しあたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた 敵はそれを数万の軍勢とみておそれをなしたちまちのうちに逃げ去ったという この伝説に因んで、「一夜の松原」とも称せられる」

 

④ 稲荷山の名婦(みやうぶ)4  伏見稲荷楼門と狐r02#

 京都の伏見稲荷大社(古事記:宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)、日本書紀:倉稲魂命(ウカノミタマノミコト))の神使は農耕神としての神格から狐です。(名婦-命婦とは稲荷の狐に与えられた称号・官位です)                                                       写真:伏見稲荷大社の楼門と狐とお絵札

 

 

 

 

 ⑤ 比叡山(ひえいさん)の猿、

比叡山坂本の日吉大社(大山咋神いおやまくいのかみ)の神使は山の神としての神格から猿です。                                               写真:左は日吉大社・西本宮楼門の棟持ち猿、右は江戸山王日枝神社の猿5  日吉大社の棟持ち猿と江戸山王神社の猿r02#