本年(2012年)10月1日に、 東京駅丸の内駅舎が開業当時(大正3年)の姿に復原されました。 南北のド-ムも復原され、 ドーム天井の鷲や干支のレリーフも再現しました。
開業時の駅舎は、日本銀行本店などを設計した建築家、辰野金吾によって設計されたもので、ヨーロッパの多くの大都市の中央駅にもひけを取らない、「日本の中央駅」として建設されました。ステーションホテルも併設されました。いわば、国威を表する駅でもありました。しかし、1945年(昭和20年)、戦災により南北のドームや屋根などを焼失してしまい、戦後、3階建ての駅舎だったのを2階建て駅舎に改修されて今日に至っていました。 (文中の写真をクリック拡大してご覧ください)
稲穂を持つ鷲
東京駅ドーム天井
東京都千代田区丸の内1-9
今回の復原で、南北ドームの内側や鷲や干支などのレリーフも創建当時の姿に復原されました。八角形のドーム天井のそれぞれの角には、拡げた羽の大きさが2.1mもある「稲穂を持つ鷲」のレリーフ(計八羽)が配されています。稲穂を持つ鷲の構図は大変珍しいものです。なぜ鷲が稲穂を持っているのでしょうか。
この鷲のレリーフは「鷲が稲穂を持って飛来し、そこから日本の稲作は始まったとする伝説」に因むものと思われ、駅の設計者、辰野金吾はそれを日本(瑞穂の国)の表玄関「東京駅」にふさわしいレリーフと考えたものと思われます。
なお、この伝説は出雲系の天穂日命(アマノホヒノミコト=農業・稲穂の神でもある)とその子、天夷鳥命(アマノヒナトリノミコト、別名・天鳥舟命、武夷鳥命=鷲大明神などとされる)に拘わるものともされます。
このような、『日本の稲作は、大鳥が稲穂を持って飛来したことから、始まった』とする、「大鳥による稲穂飛来伝説」は日本の各地にあり、大鳥(おおとり)は、鷲だったり、鶴だったり、大白鳥だったりします。 |
鶴が稲穂を銜(くわ)えて飛来
伊雑宮の御料田
三重県志摩市磯部町上之郷
皇大神宮(伊勢の内宮)の別宮伊雑宮(いざわのみや・いぞうのみや)の御料田は、「真名鶴の穂落とし(鶴が稲穂を銜えてきたとの)伝説」に因んで日本の稲の発祥地とされています。
真名鶴の穂落とし伝説
倭姫命(やまとひめのみこと)が志摩の国を巡られた時、伊雑宮のあるこの地に、一株(一基)で千穂にもなる稲が生えて、傍でこの稲穂をくわえてきた鶴が鳴き飛んでいた、と伝わります。なお、この鶴は大歳神の化身だったともされまます。
天保年間の初夢用宝船絵にみられる稲穂をくわえて飛来する鶴
日本武尊の白鳥伝説
日本武尊は、東国征伐の帰路、三重(伊勢)の能煩野(ノボノ)で大和への強い望郷の念を残しながら、病没します。日本武尊の訃報を聞いた大和の后や御子達が能煩野に来て墓を造って泣き悲しんでいると、突然、尊の墓から、八尋白智鳥(ヤヒロシロチドリ・ 大きな白い鳥)が大和へ向かって飛び立ち、棺は空になっていました。
この日本武尊の霊魂ともいえる大白鳥は、大和にいったん降りたもののすぐに飛び立って日本の各地に現れ、飛来地で稲作が始まった、との伝承も多く残っています。(一般に白鳥の飛来地は肥沃な湖沼地など低湿地で稲作に適した地形が多く、早くから水田耕作が行われている地でもあります)
この「白鳥伝説」は、日本武尊の東征伝説と相俟って、大和朝廷の勢力拡大と、稲作の普及を暗示しているものとも思われます。なお、八尋白智鳥( 大きな白い鳥)は、白鳥、大鳥、鷲(オオトリ)などとも呼ばれ、神社名にもなっています。
奥三河の旧作手村(新城市)には、日本武尊に因む白鳥神社が11社も集中しています。湿原地帯だった作手高原はかつて白鳥の飛来地でした。白鳥の糞が肥料として古代の水田耕作に恩恵をもたらしていたこともあって、古代からこの地区には「白鳥信仰」がありました。それが、後に「日本武尊の白鳥伝説」と習合したため、白鳥神社が集中したと考えられています。(参照資料:作手村歴史民俗資料館の資料)
付録 復原東京駅 全景
写真をクリック拡大してご覧ください