能(謡曲)と神使 後編 ⑤~⑧
⑤ 謡曲「賀茂」と 子持ち夫婦猿
⑥ 謡曲「三輪」と 蛇
⑦ 猿楽「三番叟」と 猿
⑧ 狂言「蝸牛」と かたつむり
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⑤ 謡曲「加茂」と 丹塗り矢伝説・夫婦子持ち猿
謡曲「加茂」あらすじ
別雷神の面:「大飛出」(東京国立博物館蔵)
播州(兵庫県)室の明神と、都の賀茂明神とは御一体であるというので、室の明神に仕える神職は、都へ上り賀茂の社に参詣します。すると、その川辺に新しい壇が築かれ、白木綿に白羽の矢がたててあります。それを見て不審に思って、丁度、そこへ水を汲みにやってきた二人の女に問いただします。女は『昔、この里に住んだ秦の氏女が、朝夕この川の水を汲んで神に手向けた。ある時、川上から白羽の矢が流れてきて水桶に止まったので、持ち帰って家の軒にさしておくと、懐胎して男子を産んだ。その子の父親は不明だったが、三歳になった時、「父と思われる人に御酒をあげなさい」といわれると、「父はこの矢であり、雷神である」と天に上って行った。この子は別雷神(わけいずちのかみ)と名付けられて上賀茂神社に、母(玉依比売)は下賀茂神社に、そして矢(火雷神)は乙訓の郡の社に、と「賀茂三所」に祀られている』と賀茂三社の縁起を語ります。 つづいて水汲みながら川に因んだ歌を引き、その流れの趣を語り、やがて自分が神であることをほのめかして消え失せます。
「賀茂」の題材 : 丹塗り矢伝承
丹塗り矢伝承について
丹塗り矢伝承と呼ばれる伝説は、渡来系豪族、秦氏に残る古文などによる伝説とされ、これら神話に関係する神社は、いずれも、秦氏ゆかりの社です。この神話は、いくつかの異なるバージョンが伝わります。
丹塗り矢伝承の大筋は、『加茂玉依日売(かもたまよりひめ)が川で水を汲んでいると、川上から丹塗りの矢が流れてきて、水桶にかかった。玉依日売はこの矢を持ち帰り、寝室の柱に刺し置いたところ、懐妊し、男子を出産した。この子(別雷神=わけいづちのかみ)の父神が誰だか判らなかったが、成人式の時「お前の父神に酒をあげなさい」と言われると、別雷命は杯を持って天に昇っていったので、父神が誰だか判った。』というものです。
大筋はほとんど同じですが、矢に化身して賀茂玉依日売を懐妊させた主(別雷神の父神)が異なります。上賀茂神社の由緒では、矢の主は「火雷神(ほのいかずちのかみ)」とされますが、古事記によると矢の主は、比叡山の山王で日吉大社の祭神の「大山咋神(おおやまくいのかみ)」とされており、また一説によると、「大物主神」とする説もあるようです。
上賀茂神社の丹塗り矢伝承
上賀茂神社(加茂別雷神社 かもわけいかづちじんじゃ)
京都市北区上賀茂本山339 祭神:加茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)
上賀茂神社の由緒書(下掲)には、「丹塗矢の神話」として、火雷神(ほのいかづちのかみ)が丹塗り矢に化身して、賀茂玉依比売(たまよりひめ)を懐妊させ、生まれた子が当社の祭神賀茂別雷神(わけいづちのかみ)だとあります。
上賀茂神社の丹塗矢の御神話 上賀茂神社のHPより引用 クリック→拡大
日吉大社の丹塗り矢伝承 古事記の記載
日吉大社(ひよしたいしゃ)滋賀県大津市坂本
祭神 東本宮:大山咋神(おおやまくいのかみ)、西本宮:大己貴神(おおなむちのかみ=大国主神)
古事記には、大山咋神について次のように記載されています。「大仙咋神、亦名山末之大主神、此神者坐近淡海之日枝山、亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也」(『大山咋神(オオヤマクヒノカミ)。またの名は山末之大主神(ヤマスエノオオヌシノカミ)。この神は、近淡海(チカツオオミ)国(滋賀県)の日枝山(比叡山・日吉大社)に座す。また葛野(カズノ)の松尾(京都・松尾大社)に座す。鳴鏑(ナリカブラ)になりませる神なり。』)とあります。 注:鳴鏑(ナリカブラ)とは、射ると風を切って鳴りながら 飛ぶ矢のことで、ここでは丹塗り矢と同意。
すなわち、大山咋神が丹塗り矢(鳴鏑)に化身して川を流れ下って、賀茂玉依比売を懐妊させ、賀茂別雷神をもうけたとの伝承から、大山咋神(日吉・松尾大社の祭神)と加茂玉依日売(下鴨神社・加茂御祖神社の祭神)とは夫婦とされ、両神の子は加茂別雷神(上賀茂神社・加茂別雷神社の祭神)とされました。
飛騨山王宮 日枝神社 岐阜県高山市城山
飛騨山王宮・日枝神社では、古事記の上記記載に由来して、社紋を「かぶら矢の鏃(やじり)」としています。かぶら矢の鏃(やじり)三つを交叉(こうさ)させたものです。 クリック→拡大
山王系神社の子連れ夫婦猿は丹塗り矢伝承が由来
猿が山王系の神社の神使とされます。神使の猿の像は「子どもを連れた夫婦の像」が多くみられますが、これは、山王系総本宮、日吉大社の祭神である大山咋神にまつわる、上掲の「丹塗り矢伝承」に由来するとされます。
江戸山王日枝神社(東京都千代田区永田町)拝殿前(左) 神門(右)
三沢・日吉神社(福岡県小郡市三沢 小針・日枝神社(埼玉県行田市小針)
水屋・山王宮(佐賀県鳥栖市水屋町) 荻・日吉神社(埼玉県都幾川村西平)
相模町・日枝神社(埼玉県越谷市相模町) 郡山・日吉神社(福島県富久山町久保田)
清水・日吉神社(福岡市南区清水) 円蔵・日吉社(神奈川県茅ヶ崎市円蔵)
⑥ 謡曲「三輪」と 蛇
謡曲「三輪」のあらすじ
大和国(奈良県)三輸山の麓に庵室をかまえている玄賓(げんぴん)僧都のもとへ、毎日、樒(しきみ)と閥伽(あか)の水(神前に供える榊さかきと水)を持ってくる女があります。今日も、この淋しい庵を訪れた女は、罪を助けてほしいと、僧都にたのみます。
そして、秋も夜寒になって来たので、衣を一枚いただきたいといいます。僧は衣を与え、「住家はどこか」と尋ねると、女は「わが庵は三輪の山もと恋しくば、とぶらひ来ませ杉立てる門」という古歌がありますが、その杉立てる門を目じるしにおいでなさい、といい残して、姿を消します。
三輪明神に日参している里人の知らせで、僧都が三輪の社に来て見ると、その者のいう通り、以前女に与えた自分の衣が二本の杉に掛かっており、その裾に一首の歌が書いてあります。それを読んでいると、杉の木陰から御声がして、女姿の三輪明神が現われて、神といえども衆生を救うため迷いの心を持つことがあるので助けてほしいといい、三輪の妻訪い(つまどい)の神話を語り、天照大神の岩戸隠れの神話を物語り、神楽を奏します。そして夜明けと共に消えてゆきます。 参照;能楽手帖(権藤芳一)
三輪明神・大神神社(奈良県桜井市三輪)
衣掛杉(ころもがけのすぎ): 謡曲「三輪」で、僧の玄賓が三輪明神の化身の里女に与えた衣が懸かっていたと謡われた伝説の杉。株だけが保存されている。
「三輪」の題材 : 三輪明神の妻訪い神話
謡曲「三輪」は、古事記・日本書紀などに載る三輪の神婚伝説(妻訪い神話)を題材としています。神話では、三輪山の祭神大物主命(三輪明神)は蛇神だったとされています。
三輪明神・大神神社(おおみわじんじゃ) 奈良県桜井市三輪
三輪山(神奈備山、三諸山)をご神体とし本殿を持たず、上代の信仰のかたちをそのままに今に伝えるわが国最古の神社。大和国一の宮。祭神の大物主神は、別名、大国主神・大己貴神で知られる。国土開発、農工商の産業開発、治病、造酒、製薬、交通、航海、縁結びなど生活全般の守護神。
古事記・日本書記に載る「三輪の妻訪い神話」 (あらすじ)
古事記の「三輪の妻訪い神話」
活玉依毘売(いくたまよりびめ)のところに、立派な男が夜毎通ってきた。毘売(姫)はすぐに身篭った。このことを知った両親が姫を問い詰めると、姫はその男の名前も素性も知らないという。そこで両親は、男の氏素性を知るために、夜、男が訪れたとき、糸巻きに巻いた麻糸の先に針をつけ、その針を男の衣の裾に刺しおくようにと、娘に知恵を授けた。
朝になって、男の裾に刺した麻糸をたどると、糸は戸の鍵穴を通って外に抜け出し、さらに、三輪山の社まで続いていたという。
この神話では、男の正体は、鍵穴を抜けることの出来る蛇(巳)で、三輪山に座す大物主神であることを暗示しています。また、姫の部屋の中には三勾(みわ)すなわち三巻の糸が残っていたので、この三勾が三輪の語源とされたといいます。境内に姫が糸巻きの糸をたよりに三輪山に至った時に、糸が終わっていたとされる伝説の杉「おだまき杉」の根株が祀られています(緒環(おだまき)とは糸巻きのこと)
日本書紀の「妻訪い神話」
日本書紀の「三輪の孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命(やまととどひももそ姫)が、毎夜通ってくる夫(大物主神)に「昼のお顔を拝見したい」と頼むと、「明朝、私はあなたの櫛箱の中に入っているが、その姿に驚かないようにとのことだった。
朝になって姫が、櫛箱を開けてみると、中にいたのは小さな蛇だった。姫は驚
き泣き叫んだ。正体を見られた大神は恥じ入り、人の姿になって、三輪山に帰ってしまった。このショックで姫は、急にしゃがみこんだはずみに陰部を箸で突いて絶命したという。(三輪山の麓に姫の箸墓があります)
巳の神杉(みのかみすぎ) 右図
根元の洞に三輪の大物主大神の化身の白蛇が棲むことから名付けられたご神木。巳の好物の卵とお神酒が供えられています。蛇は「巳(み)いさん」と呼ばれています。
手水舎の水口
手水舎は、三輪の「しるしの杉」(神杉)の傍らにあります。 三輪の祭神、大物主神が蛇神で酒造りの神であることに因んで、蛇が、宝珠を抱え、三本杉の神紋のある酒樽に巻きついて、口からを水を吐いています。
⑦ 三番叟(さんばそう)と 猿
三番叟(さんばそう)とは
三番叟後半の面:「黒式尉」(東京億立博物館蔵)
三番叟(さんばそう)とは、能の「翁」(式三番)で、一番目に父尉(ちちのじょう)が「千歳」を、二番目に「翁」が「翁ノ舞」を舞い終わった後、三番目に演じる老人(叟)」の舞をいいます。狂言方によって演じられます。三番叟の「叟」は訓読みだと「おきな」で年寄り、老翁の意です。和泉流では「三番叟」と称しますが、大蔵流では「三番三」といいます。、近年「三番叟」の部分だけが独立して演じられることも多いようです。
最初の「千歳(せんざい)ノ舞」に続いて、翁が舞台上で面をつけ、天下泰平・国土安穏を祝して荘重に「翁ノ舞」を舞って退場。その後、狂言方になり、三番目の翁(三番叟)が、五穀豊穣を祈って、面をつけずに足拍子を踏みしめ力強く舞い「揉ノ段」、さらに、黒式尉(こくしきじょう)の面(上掲)をつけ鈴を振りながら、種まきのような所作を含めて、はじめはじっくりと、次第に急速に舞い納めます「鈴ノ段」。
三番叟は、冬が終わり生命が躍動する初春を迎えたことを喜び、天下泰平と五穀豊穣を祈る、祝言・祝舞で、農民の豊作祈願を表す舞です。初春を祝う目出度い舞なので、幕開けや演目の最初に演じられることが多く、「おさへ おさへ おう、喜びありや 喜びありや。わが所より外(ほか)へはやらじとぞ思ふ」で謡が始まります。
「舞う猿」の由来は 能の三番叟(さんばそう)
「能」と呼ばれるようになったのは明治に入ってからで、能は、江戸時代までは狂言も含めて「猿楽」と呼ばれていました。「式三番」は平安時代にまでさかのぼる、滑稽味のある祝言・祝舞で、農村の祭りが起源とされ、物語性はなく、能の舞台演芸の起源とは異なるとされます。また、式三番中でも三番目に当たる「三番叟」は前一番、二番と異なり、狂言方によって演じられ、古来の猿楽・田楽の趣が残ります。
猿が、烏帽子を被り、扇や鈴を持ち踊る姿を像、絵画、土人形などでよく見かけます。これは、三番叟」が「猿楽」と呼ばれていたことや、五穀豊穣を祈る、シンプルで滑稽味のある軽妙な舞であることなどから庶民に親しまれ、その装束や動きが猿に取り入れられたからです。また、「三番叟」が初春を祝い、農事など物事の始まりを意味する舞であることから、正月の「猿回し」で新年を祝い、魔や厄、難を祓う(魔、厄、難が去る)、物事や商売がうまくいく(人に勝る)などとして猿に関連付けられたものです。
扇を持つサル
猫実の庚申塔(浦安市猫実) 山脇神社(尾道市東久保町) 大豊神社内日吉社(京都市右京区)
鈴を持つサル
江戸山王日枝神社(東京都千代田区永田町) 川越・浅間神社(川越市藤見町) 富士浅間神社(川越市今福、菅原神社内)
庚申塔の踊るサル
上段 御霊神社(鎌倉市坂ノ下) 下段 宗健寺(青梅市千ケ瀬町)
年賀切手の三番叟
昭和28年「三番叟人形」 平成4年 金沢張子の「猿の三番叟」 平成16年 愛媛県の「伊予一刀彫三番叟」
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⑧ 狂言「蝸牛(かぎゅう)」と でんでんむし
蝸牛(かぎゅう)とは、かたつむり、でんでんむしのことです。狂言は、650年くらい前の室町時代からある滑稽味のある伝統芸能です。その時代の人達の日常生活をテーマに、会話や囃子・踊りなどで展開します。この「蝸牛」も、蝸牛を山伏と取り違える設定の面白さに加えて、当時の子供たちの「カタツムリへの呼びかけ唄(わらべ唄)」が題材とされています。
「蝸牛(かぎゅう)」のあらすじ
主人は家来の太郎冠者(かじゃ)に蝸牛(かぎゅう)を捕ってくるよう命じますが、命じられた冠者は「蝸牛が何か」を全く知りません。そこで、主人は「頭は黒く、腰に貝をつけ、折々角を出し、藪にいる」と教えます。
蝸牛を探しに出た冠者は、藪の中で、「黒い兜巾(ときん)を頭にかぶって、腰に法螺貝(ほらがい)を付けて寝込んでいる」山伏に出会い、その特徴から山伏を「蝸牛」と思い込んで、主人の所へ連れて帰ろうとします。
冠者の勘違いに気づいた山伏は、からかってやろうと蝸牛のふりをします。そして、囃子事(はやしごと)をしてから行こうと、冠者に「雨も風も吹かぬに 出ざ 釜打ち割ろう」と囃させ、自分は「でんでん むしむし」と合いの手を絶妙な間で入れて、二人で、足を踏み鳴らして 唄い踊り呆(ほう)けます。そこへ帰りが遅いのに業(ごう)を煮やした主人がやってきて、その様に驚きながらも冠者に山伏の正体を知らせますが、ついには自分もつり込まれて、三者で唄い囃しながら退場します。
蝸牛の題材 :でんでんむしのわらべ唄
「 雨も風も吹かぬに 出ざ 釜打ち割ろう 」「 でんでんむしむし 」
この囃子詞を日常語にすると、「雨も風も吹いていないのに(殻から)出てこないなら、殻を打ち割ってしまうよ」「出てこい、出てこい、虫よ、虫よ」です。「でんでんむし」とは、殻から顔(=つの・やり)を「出せ出せ虫よ」の意なのです。室町時代の子供たちが唄った「かたつむりへの呼びかけ唄(わらべ唄)」とのことで、当時の習俗を題材とする、この狂言「蝸牛」は「かたつむり」が「でんでんむし」の愛称で呼ばれるようになった由来の一つとされます。
石造りのかたつむり
上 多摩川台公園(東京都大田区田園調布)下 東京農大「食と農の博物館」(東京都世田谷区上用賀)
かたつむりの呼び名
古来、身近で接して親しまれてきた「かたつむり」には様々な呼び名があります。名の由来には諸説ありますが、下記に例示しました。
かたつむり
硬い殻を背負っている虫。「かた」は硬い、「つむり=つぶり」で巻貝(かいつぶり、つぶ)の意。
でんでんむし
「でん」は、殻にこもる虫に「出んか(出てこないか、出てきなさい)」の意で、殻から「出よ、出よ、虫よ」との呼びかけ。「出ない」ではない。
蝸牛(かぎゅう)
蝸はかたつむりとも読む。触覚が牛の角のようで渦巻き状の殻をもつ虫。「咼」は「渦(うず)」の意で、虫偏にして「蝸」と記し「かたつむり」とした。
その他、「マイマイ」「つぶり」「ナメクジ」などとも呼ばれているとのことです.
文部省唱歌 「かたつむり」
今日、親しまれている「かたつむり」の歌は、1911(明治44)年に『尋常小学校唱歌』一年生用として発表されたものです。平安・室町の昔から伝えられてきた、わらべ唄や詩歌などがベースになっていると思われます。
本稿は 「能(謡曲)と神使」の 後編 ⑤~⑧ です。
前編 ①~④ は こちら です。