養蚕の回顧(赤とんぼ)
この稿では、 近代の養蚕の名残りともいえる図版などを 並べてみました。
別稿の 「養蚕の神々(金色姫伝説)」や 「養蚕守護(ネズミ除け)」と合わせてご覧ください。
- 昔は日本中どこにもあった桑畑
- 錦絵で見る江戸時代の養蚕
- 養蚕秘録
- 蚕霊碑
- 蚕と桑の耕作の吉凶札
- 富岡製糸場
- あゝ野麦峠
- 繭玉飾り
- 世界遺産-富岡製糸場と絹産業遺産群
- 付録 参考 1 蚕の一生 2 蚕から織物までの工程
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日本の養蚕は、稲作の伝来(紀元前200年前ごろ)とともに始まったとされます。奈良時代には税として絹が朝廷に収められるなど、以来ずっと養蚕は行われてきました。特に明治になると、養蚕・生糸生産は明治政府の近代化・殖産振興の象徴として推奨され、明治42年(1909)には世界一の生糸輸出国になりました。蚕の飼料である桑の栽培面積は、明治初期から増加して、生糸の輸出量が最高だった1925-35年代にピークに達しました(農家の40%が養蚕農家だった)。しかし、1929年の世界恐慌で最大の輸出先だったアメリカ向けの生糸の輸出が止まり、1940年ころ以降は第二次世界大戦をはさんで、化学繊維やナイロンが開発されて低価格で大量生産が可能になったことなどから、生糸輸出は急激に衰退して減少の一途をたどりました。そして、今日では、昔は日本中どこにもあった桑畑(養蚕農家)はほとんど見られなくなりました。
(明治23年-平成16年)
昔は、集落(農家)の近くには桑畑がたくさんありました。桑畑の地図記号もあって地図に表示されています。
桑畑は、かつては、栽培面積が多いばかりではなく重要な畑として、特別扱いされて地図記号まで用意されたのでしょう。でもほとんど桑畑が見られなくなった現在、桑畑の地図記号も消滅の方向にあるのでは。(右は地図記号)
3000年以上前の中国の殷(いん)王朝時代の亀甲文字にも「桑(くわ)」の文字があるとのことです。桑は中国では神聖な木であり、神の木とされていました。桑の字は、「叒は葉を表し、桑の葉が(蚕の餌として)三人(多数)の手で摘み採られる木である」ことから、できた会意文字とのことです。
参照:右は、亀甲文字の「桑」-おうようかりょう筆。亀甲もじであそぶ「ちゅうごくの十二支のものがたり」関登美子著
桑の実はまぼろしになり、、赤とんぼ(特にミヤマアカネ)もみかけなくなりました。
錦絵で江戸時代の養蚕の様子をご覧ください。錦絵に描かれたということは、養蚕が日常生活の中で大きな関心事だったことを示しています。(なお、不明瞭な写真ですが、この項の画像は下記の展示錦絵をフラッシュなしで撮影、画像処理したもので、色調など、原画とは異なります)
東京農工大学 科学博物館 〒184-8588 東京都小金井市中町2-24-16
東京農工大学科学博物館は創業130年を迎えました。明治19(1886)年創設の農商務省蚕病試験場参考品陳列場を前身とし、養蚕や繊維関係資料の常設展示もしています。
「蚕織錦絵・生糸商標コレクション展」(2016年10月1日~12月27日)
➀ 蚕家織婦之図 橘守国(たちばなもりくに) 江戸時代中期
養蚕の様子≪蚕種-桑やり-繭(上蔟)-蚕蛾(採卵)-操糸-機織など≫が11の画面に描かれ、作業手順・注意なども添え書きされています。例えば、第11の最終画面「機織り」(下図)には、機織りをしている図とともに、蚕の神や皇后の養蚕の話題にも触れています。これらの図は、後の蚕織錦絵のタネ本として影響を与えたといわれます。
添え書き(大意) 蚕の神として祭るのは、日本の故事からだと、「火の神カグツチとハニヤマヒメとが結婚して、ワクムスビを出産したが、この神の頭の上に蚕と桑が生じた」と日本書紀(神代上)にあるので、わが国では、ワクムスビを祭るのが順当で はないか。また、「日本書紀」に第二十二代雄略天皇の后妃がみずから養蚕をされたと書かれているが、中国の黄帝の后の西陵氏が養蚕をした と「通鑑」に載るのでこれに習ったものだろう。
② 蚕屋産業乃図 五風亭(歌川)貞虎 文化13年(1816)
③ かひこやしないの図 歌川広重 弘化4年(1847)
養蚕秘録 (国会図書館デジタルより)
「養蚕秘録」は、兵庫県養父郡の上垣守国(うえがきもりくに 1751‐1806)が、享和2年(1802)に著した書(全3巻)。 蚕の詳細な飼育方法はもちろん、日本の養蚕の始まりや蚕影神社の縁起となった金色姫伝説など、養蚕に関連する様々なことが分かりやすく書かれています。多くの人々に養蚕の指導書として尊重されました。上垣守国は、奥州(福島県)や近江(滋賀県)の蚕種を研究し、進んだ養蚕技術を地元近隣(但馬・丹波・丹後)に広めました。 クリック→拡大
人皇22代雄略天皇の后(きさき)桑を持って自ら蚕を養いゐる事
今日でも、美智子皇后が、皇居・紅葉山御養蚕所で養蚕を行われているとの報道はよく知られていますが、「養蚕秘録」は、日本書紀によると「 5世紀後半の雄略天皇の時代に皇室で養蚕が行われていた」と、図を付けて紹介しています。養蚕は、当時すでに重要視されていて、皇室でも蚕を大切に育てていたことを示しています
日本書紀には「(雄略)天皇欲使后妃親桑以勸蠶事」と記述されているとのことです。 下図は、雄略天皇の勧めで、后妃が自ら桑の葉を摘んで養蚕を行っている図です。
現在美智子皇后が皇居で行われている養蚕の蚕の品種の中には、奈良時代から続く日本古来の在来種「小石丸」があります。
左は「小石丸」の繭の標本(東京農工大学の科学博物館収蔵の100種を超える蚕繭の標本コレクションの中の一つ)
蚕の唯一の餌である桑が霜(しも)や雹(ひょう)、嵐(あらし)などのため大被害をうけて、蚕を育てられなくなり、泣く泣く蚕を地中に埋めたり川に流さざるを得ませんでした。人びとは、蚕霊塔(碑)を建て、蚕の霊を弔いこのようなことがないことを祈りました。蚕が生活に密着してどれほど大切な存在であったかを物語る碑です。
神奈川県横浜市泉区和泉町3696(JA横浜支所近隣路傍)
霜害 案内板より 「慶応二年(1866)三月に、霜害のため桑が枯れてしまい蚕を育てることができなくなり、蚕を地中に埋めてしまったことが記されているとともに、台石には、六十余名の連名が見られることから、一村あげて、その時の蚕の慰霊を行ったことを知る貴重な資料です。」
高崎市指定史跡 群馬県高崎市箕郷町柏木沢(不動寺の近隣路傍)
雹害 明治20(1887)年5月23日に60cmに及ぶ雹(ひょう)が降り、桑畑は大被害を受け、桑の葉を餌とする蚕の飼育が困難と成りました。このため、村人たちは止むを得ず丘に蚕を埋め、蚕影山大神を祀り蚕の霊を慰めました。蚕影碑は、このときの惨状を後世に伝えるため明治30(1897)年に建てられたもの。
ぐんま絹遺産 群馬県安中市原市2丁目10-16 絹笠神社内
霜害 明治26(1893)年に碓氷郡を襲った大霜害は、一晩で桑を全滅させました。蚕に桑を与えられず育てられなくなった、養蚕農家は泣く泣く蚕を川に流したり、地面に埋めたりするしかはありませんでした。人びとは蚕の慰霊と農家の願いを込めて翌明治27年に碓氷社の一角に絹笠神社を建立し、境内にこの「霜災懲怨之碑」を立てて後世に霜害の恐ろしさを伝え、霜に備えるための警鐘としました。
雹・霜・嵐除け祈願 榛名講
養蚕農家の人々は、上記のよう雹、霜、嵐などの自然災害のないように、神社に参拝しお札をいただき、蚕室に貼ったり畑に立てたりしました。
榛名神社 群馬県高崎市榛名山町849
榛名(はるな)講は、群馬県の榛名山にある榛名神社に参拝する講です。この神社は、特に雹(ひょう)除け・嵐(あらし)除けにご利益があるとして全国的に知られ、信仰を集めてきました。養蚕農家は蚕の餌となる桑が雹(ひょう)害・霜害・嵐害などに合わないようにと、この社を参拝してお札(右図)を頂いて無事豊蚕を祈りました。(現在は嵐除けのお札しかない)
長野県と群馬県の県境、中山道碓氷峠(旧碓氷峠)の頂上(標高1200m)に鎮座する熊野神社では、毎年、年始に、その年の農作物の耕作状況の吉凶を占ってきました。この中に、今日でも、蚕や桑の出来の良し悪しの占い結果が記載されています。かつて、養蚕農家は、初詣に雪の中を神社に登拝してこのお札を頂いてきたのでしょう。神社の氏子には神主が届けたともいわれます。 (右は、その年の「年中耕作吉凶及び晴雨」札)
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群馬県富岡市富岡1-1
富岡製糸場は、明治政府の殖産興業政策の下で明治5年(1872)に創業した官営の模範工場です。フランスから導入された最先端の器械製糸の設備や技術を持ち、良好な労働環境の下で運営されていました。富岡製糸工場で働く当初の工女の多くは、全国から集められた旧藩士や貴族、地方の素封家の優秀な娘たちで、技術習得の後、出身地に戻って器械製糸の指導者となる役割を担ったエリートでした。製糸技術だけでなく教養、指導方法も学ぶ研修生でした。
あゝ野麦峠
山本茂美著(昭和43-1968-年刊) 明治から大正にかけて、生糸の輸出は輸出総額の3分の1を占め、政府の富国強兵政策を支えていました。明治42年(1909)には世界一の生糸輸出国になりましたが、生糸輸出は「あゝ野麦峠」に書かれたような製糸工女の悲惨で過酷な労働に支えられていたともいえます。
概要 明治中期、岐阜県飛騨地方から雪深い野麦峠を越えて長野県岡谷市の製系工場に働きに出た、貧しい農家の10代の娘達からの聞き取り調査(ルポ)です。娘たちは「糸ひき(製糸工女)」として、貧しい家族を助けるためにも、低賃金で、一日15時間の長時間労働、病気休養なし、ノルマ制、厳しい監視下の寮生活など、過酷な労働環境の下で身体を壊しながらも働かざるを得なかったのです。昭和54(1979)年に映画化され、評判になりました。
かつて各地で養蚕が盛んに行われていた明治から昭和初期にかけて、養蚕農家は、小正月(1月14・15日)の行事として、「繭玉(まゆだま)飾り」をしていました。繭玉飾りは、その年の養蚕の安全と豊作を祈って、上新粉(米粉)で繭に見立てた団子を作り、柳や欅、梅などの枝にさして、神棚や座敷、大黒柱、母屋の入り口などに飾りました。生活がかかった養蚕の無事を願う祈りは、華やかさとはうらはらに、切実なものだったと思われます。なお、初午(はつうま、2月)に繭玉飾り(繭玉団子)を行い、養蚕神の「蚕霊(こだま)さま」や「オシラサマ」にお供えしていた地区もあります。養蚕農家が無くなった今日では、かつての習俗の再現イベントとして行われています。
写真:世田谷区立次大夫堀公園民家園の繭玉飾り(2017.01.09) 白蛇は、蚕を食べる鼠除けのヘビ
なお、繭玉飾りは、餅花の一種として小正月の飾りともされ、小判、巾着、玩具なども付けて、五穀豊穣、家内安全、家業繁盛などが祈念されました。小正月が終わると、門松や正月飾りなどを燃やす「どんど焼き」が行われ、その残り火などで繭(餅)を焼いて食べると一年が無病息災に過ごせるとされました。
「富岡製糸場と絹産業遺産群」は平成26(2014)年6月25日に世界遺産に登録されました。世界遺産に登録されたのは、明治5年(1872)創業の官営模範工場で、外国(フランス)から学んだ器械を使った製糸技術を全国にひろめた「富岡製糸場」だけではありません。「田島弥平旧宅」、「高山社跡」、「荒船風穴」も「絹産業遺産群」として合わせて登録されました。遺産群は、換気重視の蚕室構造の採用、蚕病になりにくい飼育法、冷風利用の蚕卵貯蔵で養蚕回数を増加させるなど、優れた養蚕技術を開発して全国に普及させ、生糸の大量生産に寄与したものです。
世界遺産記念切手 富岡製糸場と絹産業遺産群 2015年5月25日発行
カイコ飼育マニュアル (富岡市観光HP しるくるとみおか)より引用 クリック→拡大
http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk/bland/detail/id=313 |
蚕ってどんな生き物 蚕(かいこ)は長い間人間に飼い慣らされてきたため、幼虫はほとんど動 かず、成虫は羽があっても飛ぶことが出来ません。このため人間が世話 をしないと生きてゆくことができません。 蚕のエサは、桑の葉です。現在では、桑の葉を原料にした「人工飼料」 でも飼育することが出来ます。
蚕の一生
卵からふ化した蚕は、 脱皮を4回繰り返し25日~ 30日ほどで繭(まゆ)を作り ます。 卵からふ化した幼虫を 「1齢」と言います。1回脱皮をすると「2齢」になりま す。 4回脱皮を繰り返し「5 齢」まで育ち約1週間エサ を食べると、体のまわりに 糸を吐き「繭」を作ります。 その繭の中で蛹(さなぎ)に なり、蛾になって繭から出 てきます。 (下図参照)
養蚕→製糸→織物
- 養蚕 桑を栽培し、蚕種から蚕を育て、繭(まゆ)を作らせる
- (乾繭) 蚕が蛹のうちに繭を乾燥処理して、
- (製糸) 湯に浸した(解繊した)数個の繭のそれぞれの糸を纏(まと)めなが ら 繰(く)り出して一本の糸(生糸)とし、
- (撚糸) 生糸を数本合わせて撚(よ)りをかけ、「織物用の生糸」にする。
- 染色・織り 生糸を染色し、布地に織る(先染め織り)、または、生糸のまま布地を織り後で染色する(後染め織り)。
養蚕・乾繭・製糸・撚糸・染色・織り 下図は、http://www.a-mayuya.jp/koutei/ 「繭屋 あだち」HPより
「養蚕の記憶」は、本稿を含めて下記の3部作になっています。 他の稿もご覧ください。
- ● 養蚕の神々(金色姫物語) へ
- ● 養蚕守護(ネズミ除け) へ
- ● 養蚕の回顧(赤とんぼ)(本稿)