「信貴山朝護孫子寺」や「鞍馬寺」の縁起で 毘沙門天が出現したのが寅年、寅日、寅の刻とされることから、 「虎」が毘沙門天のお使い(神使)ともされています。 しかし、毘沙門天のお使いは本来は百足であるとしてムカデもまたお使いとされています。
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毘沙門天の百足(むかで)について
軍神と財宝の神である、毘沙門天のお使いがなぜ「ムカデ」なのかは不明です。百足は、「毘沙門天の教え」だともいわれます。「たくさんの足(百足)のうち、たった一足の歩調や歩く方向が違っても前に進むのに支障がでる。困難や問題に向かうには皆が心を一つにして当るようにとの教えである」とのことです(寺の説明)。 |
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武田信玄など戦国武将は、毘沙門天が武神で戦勝の神とされることと合わせて、そのお使いのムカデは一糸乱れず果敢に素早く前に進み、決して後ろへ退かないなどとして、武具甲冑や旗指物にムカデの図を用いたりしたとされます。 |
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しかし、毘沙門天が古代インドでは宝石の神とされていたことに加えて、百足は足が多いので、おあし(銭)がたくさんついて金運を呼ぶとか、商人や芸人の間では「客足、出足」が増え繁盛するなどと、人々の信仰を集めました。また、鉱山師や鍛冶師にも信仰されたとのことですが、これは、鉱脈の形や鉱山の採掘穴がムカデの姿形に似ているからともいわれます。 |
毘沙門天を祀る寺で虎の像はよく見かけますが、百足の像に出会ったことはありません。そこで、「像」にこだわらず、手元にある「毘沙門天の百足」の図版などを下欄に並べてみました。
①毘沙門尊天御祈牘の百足

慈受院門跡 (薄雲御所) 京都市上京区寺之内通 堀川東入百々町540
「源氏物語」ゆかりの門跡寺院。通常は毘沙門堂以外は非公開。
毘沙門堂には日本三体随一といわれる「毘沙門天像 」が祀られ、「毘沙門尊天御祈牘(お祈り札)」には本尊の毘沙門天と共にお使いの百足が描かれています。お札包みの表書きには百足印が押してあります。
毘沙門天尊姿を表すお札です。この図から毘沙門天とムカデとの縁(つ)ながりが視覚的に判ります。
②神額と絵馬の百足
信貴山朝護孫子寺は、全国の毘沙門天を祀る社の総本山とされます。
縁起によると「天空遙かに毘沙門天が出現して、聖徳太子に物部守屋討伐の必勝の秘法を授けたのが、寅年、寅日、寅の刻だった」とされます。このことから、毘沙門天のお使いは、虎(寅)ともされましたが、本来はムカデ(百足)が神使だとされます。神額と絵馬でムカデが見られます。
右 本堂前の神額(左右にムカデ)
下 信貴山の絵馬
毘沙門天の神使である百足と虎、両方の図が入っています。
③大香炉の百足紋と提灯の百足図
両足院毘沙門堂 京都府京都市 東山区 大和大路通 四条下ル4丁目小松町591
本尊に、鞍馬寺の毘沙門天像の胎内仏だった毘沙門天像を祀ります。
本堂前には石造の虎の一対が奉納されています。しかし、毘沙門天の本来のお使いはムカデ(百足)だともされます。本堂前の銅製大香炉の正面や、本堂の前軒にかかる提灯にはムカデの図(紋)が入れられています。なお、大香炉の柄として阿吽の虎の彫像も配されています。
④寺紋の百足と欄間の百足彫刻
志貴毘沙門天「妙法寺」 愛知県碧南市志貴町二丁目61
仁寿元年(852)に毘沙門天を安置。浄土宗西山深草派。像は聖徳太子の御作で日本三体毘沙門天の一体と伝わります。
毘沙門天のお使いの百足を配した寺紋を用いています。手水舎の欄間に百足が彫刻されています。
⑤注連縄(しめなわ)の百足
白山神社 奈川県鎌倉市今泉3-13-20
白山神社の百足大注連縄(2007年1月8日に張られたもの)
白山神社は、鎌倉市今泉地区の鎮守(ちんじゅ)で、社伝によると源頼朝の創建とされます。頼朝が京都へ上洛した際に、鞍馬寺から平安期の毘沙門天立像が授与され、その像がここに納められたと伝わります。そのため古くは毘沙門堂とも呼ばれていました。
毘沙門天のお使いが百足とされることから、この社には今でも「百足大注連縄(むかでおおしめなわ)祭」が伝わります。氏子(檀家)衆が毎年新しい稲藁(わら)で百足を模した大注連を作り、境内入り口に張って、地域の無事と豊穣を祈願するものです。大注連は、直径20cm、長さ6m、重さ120Kgで、12組の足をつけます。
⑥宝船の帆の百足
伽耶院(かやいん) 兵庫県三木市志染町大谷
以下は、左の伽耶院の「吉祥宝船絵」に添付されていた解説文です。
古来より縁起物として、松の内に南天の葉と共に宝船図を飾ることによって、その年の財福到来、諸願成就を祈り或いは一月二日の夜、宝船図を拝し『ながきよの とをのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな』(回文)と記したものを枕の下に入れて眠れば、良夢は正夢となり、凶夢は獏が食するという言い伝えを持っているのが吉詳宝船図です。
宝船の帆の「獏」と「百足」
帆に掲げられている「獏(ばく)」字は凶夢を食すると伝えられる動物であり、同じく帆に画かれた二匹の百足は、毘沙門天のお使いで、七福神の中でも邪を破り福を招くという毘沙門天を象徴しています。
⑦提灯の百足
護国山天王寺 東京都台東区谷中7-14-8
「谷中天王寺 富の図」:「東都歳事記」筑摩書房より
谷中天王寺の本尊は、明治以降、阿弥陀如来坐像に変わりましたが、日蓮宗から天台宗寺院になった元禄12年(1699)からは比叡山飯室谷円乗院より移された伝教大師親刻とされる毘沙門天立像を本尊としていました。
富(とみ)突き(富くじ) 谷中天王寺では元禄13年(1700)から天保13年(1842)の間、徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として賑わいました。
図は、谷中天王寺で富突き(富籤の抽選)を行っている場面です。富札を握り締めて、當たり結果を待って熱狂する群集の様子が描かれています。富突き場(本堂?)の提灯には、毘沙門天王の文字とそのお使いである百足の図が画かれています。
⑧むかで札(牛王宝印)
京都山科・毘沙門堂 京都府京都市山科区安朱稲荷山町18
毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつで、ご本尊に京の七福神の一神、毘沙門天を祀る。毘沙門天のお使いの百足(むかで)を配した版画のお札、牛王宝印(ごおうほういん)があります。
ムカデのお札:「毘沙門堂」を真ん中に、右に「牛王」、左に「宝印」と描かれています
「家・事務所・商店などの入り口に貼り、厄や災難・害虫の侵入を防ぐ。また、家内に金運を呼び込むお札である。貴重な漢方薬である牛王が朱印に混入されている。薬の力で、霊力を期待するものである。」
⑨百足(むかで)ひめ小判
神楽坂・毘沙門天 善国寺 東京都新宿区神楽坂5-36
本尊の毘沙門天像は高さ30cmの木像。製作時期は不明。開山の日惺上人が池上本門寺へ入山する際、関白二条昭実より贈られたとされる。ご開帳の日は正月・5月・9月の寅の日。
平成25年(2013)よりご開帳の日に限り、100年ぶりに「百足(むかで)ひめ小判」のお守りを頒布することになったとのことです。
「古来より百足(むかで)は毘沙門様の眷属とされ、百の足で福をかき込むことから福百足(ふくむかで)と呼ばれ、開運・招福のご利益もたらすことで知られます」
芝金杉・正伝寺 毘沙門堂 東京都港区芝1-12-12
正月の初寅の日に授与された江戸時代の「百足小判」を現代に復刻したお守。
「毘沙門様の眷属の百足(むかで)は、「お足」=「お金」が多い、また「出足」が多いことから、金運上昇、商売繁盛、人気上昇、人徳向上などのご利益があるとされます」
縦40mm横26mmで、財布に入れておくと良いとのこと。常時、社務所で頒布。
⑪養蚕の鼠除けに毘沙門天のムカデ
福應寺毘沙門堂 宮城県角田市鳩原字寺44
角田市鳩原地区でも養蚕は盛んでしたが、ネズミに蚕のマユなどを食べられる被害に悩まされました。地区周辺では「ネズミはムカデを嫌う」とされており、毘沙門天の使いであるムカデが「ネズミ除け」として信仰されました。
そのため、養蚕守護を祈って、ムカデの絵や文字を描いた絵馬(ムカデ絵馬)が福應寺毘沙門堂に奉納されました。現存する堂の絵馬(23,477枚)のほとんどがムカデ絵馬で、最も古いものは明和5年(1768)奉納で、絹が重要な輸出品とされた明治10年代に奉納されたものが最も多く4000枚にのぼるとのことです。
「福應寺毘沙門堂奉納養蚕信仰絵馬」は、毘沙門信仰とムカデと養蚕が結びついた習俗を表す貴重なものとして国指定重要有形民俗文化財となり(2012年3月8日)、これを記念して「ムカデ絵馬」の切手が発行されました(2012年8月)。
かくだの「ムカデ絵馬」切手
切手の中の下掲のムカデ絵馬には、ネズミとムカデの絵が描かれています。毘沙門天のお使いの「ムカデ」が「ネズミ」を「退散」させて、「養蚕が安全」でありますように、と願って毘沙門堂に「奉納」されたことがわかります.